【創作系譜論】
本日12月14日。恒例で三波春夫「俵星玄蕃」紹介http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20141214/p5
からの続き。
何度も懲りずに繰り返すが、忠臣蔵を自分は「最後の勝者は『物語』である」というテーゼの最良の例として見ている。
世にうつし身として生きる時、いかに栄耀栄華を極めようと、美酒と美女(美男子)に囲まれようと、…あるいは逆に身は武蔵の野辺に朽ちようと、腹を十文字にさばいて首を叩ききられようと、その後数百年にわたって「相手は極悪非道のド外道野郎、それを退治する正義の味方がこのお方だ!!」と活字で、芝居・講談小屋で、映画館のスクリーンで、液晶画面で、繰り返し言われたら、現世の勝ち負けなどを超えているのではないか、という…。
「わしらの勝利は まだまだこんなもんやない 百年や二百年は勝ち続けるでェ……」
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何度もいうが、ことし没50年の力道山が、木村政彦をアクシデントか裏切りか、とにかくリング上で破り「伝説のヒーロー」となった。その打破・リベンジは、2010年代に入り、もうひとつの物語、伝説がつづられてやっと達成されたのだ。
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さて。
忠臣蔵について自分はなんだかんだと断片的知識しかないのだが、あの絢爛豪華な大河ドラマに詳しい人はよく知っていて、詳しくない人はまるで知らない人に
「多門伝八郎(おかどでんぱちろう)」というかたがいる。
以下、ウィキペディアより
多門重共
多門 重共 (おかど しげとも、万治元年(1658年) - 享保8年6月22日(1723年7月23日))は、江戸時代の幕府旗本。通称をもって多門伝八郎(おかどでんぱちろう)と呼ばれることが多い。元禄赤穂事件において浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめ、『多門筆記』に長矩の様子を詳しく記した人物として著名。
(略)
元禄14年(1701年)3月14日の松之廊下刃傷事件の際には浅野長矩の取調べと切腹の際の副検死役にあたったが、吉良義央への刃傷のはっきりとした動機は聞き出せていない。しかしこの前後の浅野の様子を『多門筆記』に克明に記した。その中で多門は「吉良はどうなるのか」と聞きすがる浅野に「老人なので長くは持たない」と声をかけるなどして思いやったとされる。
さらに切腹に当たり、正検死役の庄田安利が大名の切腹の場にふさわしくない庭先でやらせようとしたのに対して、多門ともう一人の副検死役大久保忠鎮はその処置に抗議したという。しかし庄田は激怒してまともに取り合わなかったとして批判している。また最期に一目と望む長矩の寵臣片岡高房を自分の取り成しで主君長矩に目通しを許可させたとも記している。
でまあ、『多門筆記』というのがあり、ここにはそういうエピソードがいろいろつづられ、お芝居などの元ネタにもなっているのが多い、と。
ところが最近読んだこういう本にて…
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多門についてこういう推測が書かれている。<113P>
「多門覚書」は読めば読むほど作り事めいて見える。これは多門が見たものを書き記そうとした記録ではなく、何か既にある事件の中での自分の立場を書き残そうとした記録ではないか。一つは徹底した浅野よりのスタンスで書いた事件報告である。
そしてその中で多門伝八郎はまことにかっこいい。
浅野に厳罰を与えようとする幕府上層部に喧嘩を売る。切腹の場を粗末にしつらえた上司にも喧嘩を売る。ひと目最後のお姿を見せてもらいたいという家来には特例としてその場を与える。すべて自分の利益ではない。浅野とその一党のためにわが身をかえりみず、権力と戦う。
あまりにもかっこよすぎないか。そしてウソっぽくないか…(後略)
そして佐藤氏は、多門の生涯を調べ始める。ここはウィキペディアに再度戻ろう。
『元禄16年(1703年)10月から防火の仕事に従事し、宝永元年(1704年)6月にはその功績で黄金三枚を賜った。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、1705年10月には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。享保8年(1723年)6月に死去。享年65。』
忠臣蔵の討ち入り、元禄15年は1702年。ここ重要。
佐藤氏の著作から要点を抜粋する。
・なぜ多門は小普請=閑職(というより待機状態)に写されたのか。元禄16年は江戸に大火があり、江戸城にも火が及んだ。その責任ではないか。
・多門にとっては思わぬ挫折だったろう。それ以降、何の役職も無く生涯を終えたのだ。
・エリート旗本が挫折し、失意の後半生を過ごした。それで覚書を書いたのではないか。
・振り返れば、あの「元禄松の廊下事件」に関わった時代が、自分は一番輝いていた。誰でも知ってるあの事件、あれに俺は関わってたんだぜ…。
…多門伝八郎の頭の中で、あの事件がゆっくり回りだした。時間はたっぷりある。
思い出しながらあの事件を書き残そう。と、考えても不思議ではないのでないか。『多門覚書』には細かい人名の間違いが多い…(略)事件当時は浅野には厳しい裁定だったが、討ち入りのあと、世間の評判は圧倒的に浅野びいきである。自分なら書ける、自分にしか書けぬこともある。という気持ちもあっただろう。多少フィクションが入っても、当時の目付が書いたものと知られればみんな信用するに相違ない。別にこれで金儲けをするわけでないのだ…
(略)
事件当時、伝八郎は庄田に文句も言わなかったに違いない。柳沢に食って掛かるなどは夢の中の話でしかない。しかし書き出すと文中の世界で自分はどんどんヒーローになっていくのだ… <116P>
すぐれた物語は、伝説は、また実際の歴史であってもすぐれたものは、「人間の典型」が登場していく。歌舞伎講談の忠臣蔵も、前の記事で紹介した俵星を含め、大石も吉良も浅野も一類型だろう。
しかし、ここで佐藤氏が推理した「実録・多門伝八郎」の姿(※異説を主張できる余地もあります。後述)も、また別の形で人間の一類型、なのじゃないか。少なくともぼくは四十七士とかよりなんとも、この人間像のほうが興味深いし、共感できる。
というか…
・エリート街道を歩むが、途中で挫折し、頂点に立つことはままならなかった。
・そんな中で手持ち無沙汰でもあり、かつて携わった重大事件の思い出をつづろうと思いたつ。
・書いてみると意外や文才、ストーリーテリングの才能があり、非常に面白いと評判になる。
・ただ、意識的か無意識的にか「俺はあの時こんなかこよかった!!」成分が非常に高めになる…
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(いや、そう書いてはいるが、佐々氏はその場で詳細に書いた「佐々メモ」があり、記録性は多門とは比較できないほど高いとは思う)
あるいは、「それでも町は廻っている」にこういうエピソードがある。
時々出てくるSF回で、先輩の紺双葉が、宇宙人が落としていったとおぼしき、不思議な力のある何か変な道具を拾う。だがその後、主人公の嵐山歩鳥が、その宇宙人たちと会っていたことを聞かされ
「自分はいつか、平凡な日常を越えた物語に参加したいと思っていた…だけどそういう場合の主役は、やっぱりお前なんだな(※歩鳥は奇妙な才能で、そういうことに絡む天才だと見なされている)」
「でも、この物語の中で役があっただけで十分だ」
といって、不思議な道具でトラブルを解消し、元の世界に戻っていく…という話。
多門も本来は、そういうつもりで書いたのだろうと思うのだな。
それが大人気物語、伝説の元になってしまったのは、当人にとって幸か不幸か……
もっとも、「多門覚書(の核心部分)」は後世の加筆、説もあるとか。
これは佐藤氏はその説をとっておらず、ウィキペディアでいま知った知識。
これらの出来事は多門の著作によるものではなく後世に別人が書いたとする説が有力で、赤穂側に肩入れし、文飾や美化が多く見られる。
この場合、加筆者が多門の子孫筋で「ご先祖様にいい役を…」と思ったのか、純粋なストーリーテラーで「このキャラ立ってないよ!!ここでガツンとしたエピソード入れてさあ…アンケート1位目指そうよ!!」と編集者と熱心に打ち合わせしてそうなったのかはわからん。
まあこの時は多門さん「わしは正直に覚書を書いたのに…かっこよくするとか言うが、他の資料と比べられて、『この爺さん話盛ってるわー』と言われるのはわしなんじゃぞ!!」と怒ってるという話になるな(笑)
しかし、ことほど左様に「最後の勝者は『物語』である」ということなんだと思う。
こちらがもう少し詳しく「多門覚書」は本人の作にあらず、と書いた論。上の佐藤氏の論もとりあげている。
多門筆記偽書弁 田中光郎
http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0065.htm
付記。そういえば「太平記の児島高徳も『作者がいい役を演じたい』の結果」という説があったな(井沢元彦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E9%AB%98%E5%BE%B3
江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師と同一人物とする説…
(略)
高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。
因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという……
「太平記」以外に「児嶋高徳」の名が無い⇒ゆえに高徳は実在しない。--実に明快だが単純素朴な考え方である。
というのは、もし仮にそうだとしたら、なぜ「太平記」の作者は架空の人物をこんなに「名場面」に「出演」させたかわからなくなるからだ。
確かに高徳の本格的な登場シーンはここだけなのだが、これは現代で映画「太平記」を撮るとしたら、さしずめ大物俳優がちょっとだけ登場する、いわゆる「特別出演」…
(略)
私自身、高徳が本当に桜の幹にこんなことを書いたとは、実は思っていない。この部分は作者の創作だろう。しかし、なぜ、その場面に「コジマ」という男を「出演」させたのか?…わざわざコジマ姓の人間を、こんないい場面に選んで「出演」させたのは、作者に何か大きな「思い入れ」があるはずだ。
と、ここまでかけば、なぜ私が、「高徳こそ太平記の作者」という、学会では必ずしも「有力でない」説を支持するか、お分かりだろう。(文庫版7巻P110-111)逆説の日本史7 中世王権編(小学館文庫): 太平記と南北朝の謎
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井沢氏は、こんな例を続いてあげている。
ここで注目してもらいたいのは・・・左にいるシルクハットに銃を持った男のほうだ…「山高帽の人物」は作者ドラクロワその人…もっとも、実際にはドラクロワ自身は「義勇軍に参加」はしていないらしい…むしろ、実際に「戦いの場」にいけなかったからこそ、自分の作品に「分身」を参加させたいと思ったのだろう。これが創作者の心理なのである。