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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

プチ鹿島「教養としてのプロレス」を読む(双葉新書)〜「プロレス的」の再定義に挑む革命の書

内容紹介
今もっとも注目すべき文系芸人プチ鹿島による初の新書登場。
90年代黄金期週プロや週刊ファイトなどの活字プロレスを存分に浴びた著者による、プロレス脳を開花させるための画期的書籍。
世の中のすべてはプロレス的思考法で読み解ける!すべての自己啓発本やビジネス書をマットに沈める超実践的思想書!
 
内容(「BOOK」データベースより)
「プロレスを見ることは、生きる知恵を学ぶことである」―。著者が30年以上に及ぶプロレス観戦から学びとった人生を歩むための教養を、余すところなく披瀝。今もっとも注目すべき文系芸人による初の新書登場。90年代黄金期の週刊プロレスや、I編集長時代の週刊ファイトなどの“活字プロレス”を存分に浴びた著者による、“プロレス脳”を開花させるための超実践的思想書

KAMINOGE」でのコラムなどをもとにした本だが、著者が参加している有名番組「東京ポッド許可局」のモットーは「屁理屈をエンタテインメントに!」 である。
その流儀はこの本にも当然使われており、読者は四方八方から意外な技を仕掛けられ、受身をとり損ねる場合もある。このへんはプロモーターが「やつはデンジャラスすぎる」と眉をひそめるところだ(笑)。


では、そもそも本書で定義される「プロレス」とは何であろうか?白いマットに嵐が吹き荒れる場所か、三本ロープに罠が待っているジャングルのことか。
違う。
この本でのまず最初の白眉は、冒頭で紹介される「これもプロレスだよね?」という例示である。この例示のおかげで本書は、他のプロレス解説書にない特色を最初から示すことに成功している。


ひとつが、ほんの数ヶ月まえにプロレスファンも非プロレスファンも含めて、日本人の多くが視聴した「笑っていいとも最終回 グランドフィナーレ」で、明石家さんまダウンタウンとんねるず爆笑問題、ナイナイ…などがいっせいにステージに登場した光景である。
ちょっといたお笑い通なら…いやふつうに週刊誌メディアなどを読んでいるおじさんやおばさんも、この個性の強い芸人たちが楽屋などでさまざまな軋轢があり、「XXXとXXXXは共演NG」みたいなウラの鉄則があったことを知っているだろう。

しかし、その場のノリか、あるいはスタジオの深謀遠慮か、バーッと彼らはステージに登場した。そして…ここが肝心だが、何人かは、その「ウラの軋轢」を視聴者が知っていてハラハラするだろう、ということを織り込んで、そのシチュエーションに乗って見る側をひーとさせようとしたと。

「いいともフィナーレ」多重アリバイは既にいろんなところで語られている。

http://subrok-673.hatenablog.com/entry/2014/04/02/154844
太田「あれねぇ、あそこ本当は出る予定じゃなかったんですよ、私なんかね」

田中「一組づつ全部やるはずだったんですよ、順番に」

太田「タカさんがもうねぇ、殴り込みみたいな顔してねぇ、俺の楽屋に来て”太田行くぞ!”つって、もう渋々出て行ったんですけど」

田中「もうねぇ夕ニャンの時の目になってたんだよ、タカさんが」

太田「勘弁してよっていう」

田中「いやでも”久々だったよ、タカさん!”って俺は感じ!とんねるずのもうスッゲェ若い頃の」

太田「イケイケの」

田中「イケイケのカメラぶっ壊してた頃のとんねるずになってて、俺はそれはそれでスゲェワクワクしたんだけど。”だってさぁ〜”っていう」

太田「裏で言うとタカさん実はズルいんですけどね、まぁ多くは言いません。多くは言わないですけどね。汚いんです、あの人は」

http://subrok-673.hatenablog.com/entry/2014/04/04/165955
岡村「そう。でも、あれ、よくよく考えるとですよ、全ては、俺、松本さんやと思うねん」

矢部「へっへっへっへっへ」

岡村「松本さんが『とんねるず』って単語出さなかったら、とんねるずさん乱入無かったかもしらん、もしかしたら。なぜならその時パンツ一枚だったから。パンツ一枚で流れを見てはったから、まぁもしかしたらどっかで乱入しようと思ってたかも分からへんけど、こんだけワーって盛り上がってるし、こう”長い!”って言って出て行ったかも分かれへんけど、あのーだから松本さんが『とんねるず』って言わんかったら乱入無かったかも分からんね」

矢部「あの形じゃ無くなってかもしれん」

岡村「無くなってたと思う。そんで、あのー『とんねるず』って出たから、あの瞬間にパンツ履いて、でー憲武さんに、マネージャーさんに”憲武に行くぞ!って言うてくれ”って言ってマネージャーさんが憲武さんの所に行ったら、憲武さんもすぐに服着てたみたいで、満々やってん、準備万端やって、行くついでに、あれよ、太田さんに”殴り込み行くぞ!”つって、”殴り込み行くぞ!”って言われたから爆笑さんもそれはしょうがないやんか」

こんな状況になって、32年の番組の最後を、あきらかに事前の段取りと違う形で染められてしまった当事者のタモリが「すごい」と自分で驚いた後
「これ…プロレス?」
とつぶやいたシーンを、プチ鹿島氏は捉える。
つまりこれこそが、段取りがあるんだろ、というような蔑称的な使い方ではなく、「本当に彼らがそろっちゃったのか」「これから何が起こるのか?」という興奮を伝えた、正しい用法だというのだ。

ネットのありがたいところで、その映像を見てもらうとしましょう。「プロレス?」というタモリの言葉も聴ける。

もう少し長い映像もyoutubeを探すとあるね。



もうひとつは、昨年東京ポッド許可局が赤坂で行ったライブ公演だ。
詳細は同書にゆずるが、骨子だけ書くと

ポッドキャストで何度も話題にした人物を大物ゲストとして招く交渉に成功した。
・しかしその人はドラマ収録で当日は東北。公演時間に登場するにはギリギリで、撮影が押したらムリという条件。
・ゲストは来れるのか?をドキュメンタリー風に煽ることも考えたが、先方の希望もあり告知はナシ。
・出演可能になった時の演出を任されたプチ鹿島は「ブルーザー・ブロディ、新日本に登場!!」のイメージを軸に、いかに来られた場合にサプライズ感を起こすかの構想を練るが…

という話。著者は自分で「なるほど、考えてみればこれがプロレスだ」と膝を打つ。
『ぜんぜん自分が知らないサプライズではない、でもアクシデントの可能性もある。ゲストと綿密な打ち合わせのないままアドリブをしなければいけない。ただ、これが客を意識したエンターテインメントであるという共通認識を持っているという信頼感に裏打ちされている…』

現実のプロレスが、20世紀末から21世紀初頭にかけて完全ガチの格闘技から大攻勢を受けつつ、その侵攻をしのいだのにも、上のような二枚腰、三枚腰のしたたかさがあったからにほかならない…もっとも、新日だけでも、猪木的な「管理のずさんなサファリパーク」である昭和プロレスから、より洗練=管理された棚橋的プロレスに移行して今の復権がある。もう少しここは考えねばいけないかもしれない。
しかし管理の極みのWWEはまさに「ナマの感情がストーリーになる」という路線の総本山…というか懐の深さ。というか、入れ子構造すぎるよな(笑)


鹿島氏は、こんな例示から「プロレス」像を読者に指し示すと、あとは思うがままに読者を・・・いや社会全体を手のひらにのせていく。


越中詩郎から見る「あまちゃん」。
桜庭和志から見る「イチロー」。
劇画版タイガーマスクから見る「笹川良一」。
ヒクソン・グレイシーから見る「木嶋佳苗」。


…いや、自分も気になって再確認したが、この見立てはたしかに収録されている、俺の書き間違いでは無い(笑)。許可局的な「屁理屈エンターテインメント」としての見立て芸として「んなわけねーだろ」という感じで突っ込んだり「いや、むいろあまちゃんはプロレスラーでいうなら○○○だろ」というような別の答えを考えて対抗してもいいのだが、いくつかはそういう芸を超えて、かなりの奥…本質中の本質まで突き刺しているものもある。

そのひとつが、小泉進次郎論なのだが、内閣改造という節目を迎えた安倍内閣自民党に関して重要な部分を指摘しているので、機会があれば別立てで紹介しよう。


ともあれ、「プロレス(的)」ということばは、…この前、よりにもよって「あの」古館伊知郎氏が従来の文脈で「プロレス」と使ったことが話題、というか一部ファンの強い失望を招いたのだが…
http://lite-ra.com/2014/07/post-238.html


この革命の書によって再定義され得る。その革命が成し遂げられるか、どうか。壮大な名勝負数え唄の、1番だけがこの本では歌われたにすぎない。


(了)