TBSはこのとき、とほうもない構想をひそかにもっていた。
俳優の、格闘技出場である。
べつだん、これまでに前例が無いわけではない。
ボビー・オロゴンという、タレントを、起用して視聴率を稼いだという、民族的な神話が、TBSにはある。
苦境に陥ったとき、そこに頼るという発想が出てくるのも、いわば骨にまでしみこんだ、民族の型であるといえた。ただ、俳優が格闘技の才能もあるという稀有な例は、一国の歴史の中でひとりかふたり出ればいいというようなものであって、その神話的な成功体験によりかかるという点に、既に欠陥があったとさえ後世からは思える。だが、テレビ局が集団で酩酊状態にあるときは、このようなものであろう。
ともかく、TBSは格闘技のできる俳優を探した。
−−−ルーキーズに出てきた中尾明慶という男は、やるらしい。
そういううわさを、どこからか聞いたものがいたらしい。
この男に、オファーをした。中尾のかよう、通常の芸能事務所経由だけでなく、ジムのほうにも連絡したということが、TBSのほんきぶりを示している。
中尾という男は他の分野でも知名の士であったが、ルーキーズを放映していたTBSでももちろん高名であった。同時に、TBSから見れば、中尾はこのテレビ局に大きな恩があるといえる。
本来なら、二つ返事で参戦表明をするべきであった。
しかしながら中尾は、他局にも出て回っており、TBSよりはよほど今の世情に明るい。
かれの返事は、明瞭な形での拒絶であった。
その書状では「出演じゃなくて出場ということは、自分をかませ犬として使う、ということであろう」という自己認識からはじまる。
「なぜならば、いまの時代のプロ興行の試合は、それに命をかけて技術を習得した剛勇の士同士のたたかいであり、そこに準備なしに加わるのは、逆に彼らへのあなどりである。このことは心を平らかにしてみればたれしもが気づくところであり、TBSの英明をもってすれば百もご承知であろう」
公式の訳文は
「ボコボコにされるだけだわ。
プロの方に失礼だよ。」
と、くだけた口語体である。
「試合を行うとするなら、ひとしく勝利をめざすことが必要であり、みずからを省みるに、勝利をめざせるまでに必要な時間は約50万年である」
と、おどけていう。50万年というとほうもない数字は、あるいはこの時期に流行っていた仏教の末法思想の影響かもしれない。ここで、事態はふりだしにもどらざるをえなかった。
=========================
このながい物語は、その大晦日史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらはDynamite!2010というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまりセンス無きテレビ局ががもったこっけいなほどに楽天的な連中が、アメリカにおけるもっともふるい格闘技団体のひとつと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、テレビ業界人としての体質で、視聴率をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし別の芸能人の候補がいるとすれば、それを見つめて坂をのぼってゆくであろう。(未完)
基になったお話は、ここにあるとおり。
http://d.hatena.ne.jp/lutalivre/20101215#1292407627
季節がらと、あと手の届く範囲においてあったということで
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1999/01/10
- メディア: 文庫
- 購入: 13人 クリック: 168回
- この商品を含むブログ (473件) を見る
突発的な司馬遼太郎の文体模写は、これまでも
■石井慧が笑っていいともで披露したエピソードを、意味無く司馬遼太郎風に語る。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090619#p2
■文体模写ブームにひとつ便乗してみようか
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080206#p5
で書いていた。必然性はあんまりない。