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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

三沢光晴はプロレスそのものだった。

ニュース自体はどこでも見ることができるだろうから、引用することもないだろう。
プロレスラー・三沢光晴(敬称略させてもらう)が死去した。享年46歳。
私は昨日の夕方から、たまたまネットにつなげない環境でTVニュースも夜のものは見られず、訃報を遅れて聞くことになった。
多くのファンがブログや掲示板で死を悼んでいる。わたしも心定まらないながら、こうやって字をつづっている。




死を呼んだリング禍に関し、技の危険さや救急体制、本人のコンディション、あるいはプロレスそのものの危険性…その他についても今後さまざまな報道がなされるだろう。
ただ、一般論としていうなら、三沢の受け身のうまさと、それを可能にした練習とキャリアについては、誰も疑う余地がないものだった。
それでもなお、こういうことが起きうる。
脳の問題についてはそもそも、まだ分からないことも多く、三沢レベルの「完璧な受け身」というのも、長期的な影響がないのかとか、三沢の天才をさらに超えるような、過激な技や展開が多かったんじゃないか、といわれれば、それもいま否定するわけにはいかない。


それほど、三沢のプロレスはすごかった。
1990年代、「超世代軍」として、天龍らが離脱後の全日本で、怪物ジャンボ鶴田に対抗していったとき、そして当初はこいつらを相手にするのは荷が重いだろ、というイメージがあったスタン・ハンセンやテリー・ゴディを超えていったとき、川田利明が敵に回ったとき、小橋建太が飛びぬけてきたとき、外敵ベイダーが登場したとき・・・・・
そのすべてで、三沢は−−ひょっとして今回の死の遠因だったかもしれない過激な受け身を含めて−−とんでもない試合をしていった。


個人的な世代体験の絶対化だとの批判は甘受するが、
三沢超世代軍と川田たち聖鬼軍たち、そこに殺人魚雷コンビやハンセン、カンナムらが絡んだ戦いは、プロレスの最高峰であったと思う。

迫力や対世間への訴求力や、勝ち負けの緊張感、キャラクターやストーリーテリングなどはいざ知らず、プロレスの面白さのある一面を、ここまで突き詰めたものはなかった。それだけですべてを包み込んだ。


週プロはかつても今も、表紙のキャッチコピーにはひねりにひねって、読者を煽り立てるような珠玉のキャッチコピーがあった。
しかし1997年10月21日。三沢光晴vs小橋建太がメインの全日本プロレス日本武道館大会の別冊週刊プロレスの、キャッチコピーはこれであった。


そう、「これがプロレスだ」とシンプルにいうしかない、言葉が追いつかないプロレスだった。
(実際このあと、コピーをまったく載せない写真だけの三沢の試合、も表紙になっている)


きのう亡くなったプロレスラー・三沢光晴は、そんなプロレスをする、プロレスラーだった。