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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「手話をされると気が散って芸できぬ」落語家がのちに謝罪、について。美は正義を超えるか?

…落語家の三笑亭夢之助さんが九月十七日、島根県安来市民会館で落語中、舞台上で手話通訳していた三人に「気が散る」と発言し、抗議を受けて謝罪していたことが三十一日、分かった。

 安来市によると、市主催の講演会で夢之助さんに落語を依頼。聴覚障害者三人を含む約二百五十人が来場した。

 夢之助さんは開始後間もなくして通訳者に「落語は手話に変えられるものではない。手話の方がいると気が散る」などと発言。会場からは苦笑が起こった。通訳者はその後舞台から降り、手話通訳を続けた。

 会場にいた聴覚障害者から話を聞いた島根県ろうあ連盟が、夢之助さんが所属する落語芸術協会安来市に抗議文を送付。夢之助さんは謝罪文で「落語に集中するために、少し離れてほしいという意味だった」と釈明した。

 市は事前に通訳を付けることを説明していなかったとして、広報誌に謝罪文を掲載。来場していた三人の聴覚障害者にも謝罪した。


痛いニュース+」でも取り上げられていた。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1049608.html


まず、落語家本人が謝罪しているし、そもそも市の事前説明が不十分だったことが理由のひとつだし、なんかでこの問題自体は解決している。また個人的な好みとしては、たとえばこの状況自体を茶にする(茶化す)ような・・・・たとえば脈絡無く「寿限無」を早口でしゃべって、手話の人を見て「はい、頑張ってね」とか、そういう芸人のほうがイキだとは思う。
ただ、これを実際の事件から離れて、少々つめて考えると難しい問題をはらんでいるので、仮にこの芸人がもっとラジカルな人だったら・・・、と想定してみよう。


つまり、これが漫画「寄席芸人伝」でかなり誇張されてるような、本当に芸一筋、落語一筋の芸術至上主義者であったと仮定してみる。そして、実際の落語家が謝罪したような気まぐれな気分でなく、確固とした信念に基づいて


「拙の噺は、手話通訳さんの身振り手振りなんかに置き換えられるもんじゃねえんでげす」
「あたしゃ、少しでもお客様にいい噺を聴いていただくために命を賭けておりやす。気が散るようなことは例えチリひとつでもほっとけやせん。手話の方がそこにいらしてると、あたしゃ未熟者なんでどうしてもうまく喋れないんで、どうかごめん蒙ります」


といって、頑としてそれを撤回しなかったらどうなるのだろうか?

実際に文筆家の中では、視覚障害者用の朗読テープ作成を
「読み方のリズムや抑揚を、自分のイメージと異なってやられると困る」
といって、断る人もいるそうだよ(あれは了承必須だったっけ? 礼儀として許可を求めたのかな)


芸術至上主義者は時としてどんな暴力にも、どんな権力にも屈しない。自らの奉じる芸術の価値を、それ以上にみなしているからだ。ただし、彼は、まったく同じように「弱者」やその「弱者保護思想」「人権」が自分の芸術に対峙した場合でも、やっぱり屈しない・・・可能性がある。
そういう場合は、粛々とそれを弾圧するしかない、のだろうな。

今現在、「障害のある人も普通に暮らしを楽しめるように、社会は他の利便性などを犠牲にしてもそういう仕組みをつくるべし」というバリアフリー思想は一般的に正しいと思う。ただ、「正しい」ことと「美しい(「いい芸」を含む)」は、残念なことに、時々はイコールで結べないこともある。


そういう点で、社会にとっては(それが独裁者の圧制による社会でも、民主主義によって人権を保護する社会であっても)、そもそも「芸術至上主義」などというのが基本的には異物として、収まりきらないものなんだろうな。

呉智英はよく、こういうときに「文化の厚み」という言葉を使う。
10を3で割ると、どこまでたっても小数点が割り切れないように、人権や民主主義の社会では割り切れない点・・・
・・・・「手話通訳がいては気が散って、いい落語が出来ない」

というような問題を、文化の中で解決していくしかない、ということだ。
「まあまあ、そこまで堅く考えるなや」でもいいだろうし、
「まま、確かにちょっと噺家さんも気が散るっていうんだから、離れた場所で、ネ」


まあ、これで解決するのかな。どうなのかな。