毎日新聞10/31で、中島らも原作の映画「お父さんのバックドロップ」に関し、枡野浩一 、河井克夫が連載対談「日曜日の名言」で話しているのだが、悪役レスラーになって反則やパフォーマンスを繰りかえす主人公のお父さんについて
「お前の小学校かて、花の世話する当番もおったら、便所掃除の当番もおるやろ、みんなそれぞれ当番がおって・・・みんな、花の世話ばっかりするわけにはいかん。(略)お父さんの仕事は、便所掃除の当番みたいなもんや・・・だれかのために、ちょっとしんどい思いもせなならん・・・わかるか?」
(略)
でも、そんなふうに自分の仕事を卑下していた彼は誇りを取り戻すため闘い・・・・
映画では改変されているのかもしれないが、
少なくとも原作とはこの部分はちょっと違う。(以下は、ややネタバレあり)
お父さんの仕事(大暴れする悪役レスラー)は
「便所掃除のような誰も嫌がる仕事」”ではない”
ことを描いたのが、プロレスファンの原作者・
中島らもの真骨頂であったのだ。
というのは・・・ご存知の通り、プロレスは勝ち負けが決まっている、あらかじめ。
お父さんはむかしはアマレスラー、ふつうの「競技」の世界で生きていた。
しかし、「競技」をすると”勝負”の字の通りに勝ち負けが決まってしまう。
プロレスは、すくなくとも競技と同じ意味での「勝ち負け」はない。それは実は、
悪役だろうとなんだろうと華やかで穏やかで居心地のいい世界で、当番で言えば
花当番の側にじつはいるのじゃないか・・・・
そう、愛する息子に喝破されたお父さんが「いやがる便所掃除」=競技、勝負の世界に自ら赴く、というのが少なくとも原作の重要モチーフだったのである。
これは枡野氏らのキャリアや鑑賞眼、原作の知識とは別に、プロレスファンでないと解りにくいねじれた構図なので一応指摘させてもらった。