「正・続 選挙にはいかない」
http://d.hatena.ne.jp/takuya/20090825/1251227230
http://d.hatena.ne.jp/takuya/20090826/1251308604
話題になっていますね。それへのブックマーク
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とりあえず、このテーマを一章を割いて扱い、それなりに分かりやすい言葉で書いてある本があるよ、と最初に紹介しておきます。
自分の書くものも、基本的に賛同するこの文章に沿う内容になると思う。(一部は違う)
イチから考えるとこうなります
・選挙とは、投票とはそもそも何か。
・国会議員や県会議員などを選ぶとき、自分の考えに近い人間、近い政策を掲げる政党を選ぶ。
・たくさん票が入ると、その人が選ばれる。
・その人が自分の考えに近い法律をつくったり、大臣など行政を指導する人になる。
・自分が政治的影響力を行使したことになる。
おしまい
てな話です。で、冷静に見ると、これは政治的影響力を行使する、あくまでもひとつの手段にすぎない。
デモをやっても政治力の行使、政治家や政党に献金しても政治力行使、周りの人に声をかけてA党支持、あるいは不支持を広げるのも政治力行使、そしてたとえばブログにものを書いてそれに対しての反響を広げていくことも政治力行使だ。
投票へ行って、一票を投じるのも、そのワン・オブ・ゼムにすぎない。
だから今回の選挙戦中、某党の関係者が言ったという
「今の与党に投票した人は政治に文句を言えない。投票しなかった人も文句を言えない」
というのは一種の失言である。いや、憲法違反かもしれない(笑)。
選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。(15条の4) ※もちろんこの「責任」というのは単純な意味ではないが
前段は論外として、後半だって投票という政治力行使の一手段とは別に「文句を言う」という一手段を選んだというだけで、その選択はその選択だというだけだ。
ただ、手段として「投票はしない」というのは愚策であると、批判する理由は存在する。
じゃあ何ゆえ選挙にはいくべきとされるのか
【1】・なかなか実際には起きにくいことは事実だが「自分の支持するA候補と支持しないB候補が、行かなかった君の分の一票のマイナスで並んでしまい、くじ引きなどの結果、A候補が落選する」可能性というのは確かに存在する。
今現在、日本では民主主義の成熟により(すなおにそうだ)、投票したことによるリスクはほぼゼロに近い。(コストはまあ、歩いて投票所に行ったり車で行くとかかるのだが)
「上の一票差で負けるリスク」を、リスクゼロの「きみが投票する」だけで解消できる。オトクなんだ。
自動車事故に遭う機会なんて、大多数の人はなんだかんだといっても少ない。
火事にあう機会もすくない。
鍵をしなくたってめったに泥棒なんて来ない。
俺が自動車保険に入らなくたって、この1年どうせ変わらないよ、鍵なんかかけなくても、ちょっと外出するぐらい大丈夫だよ・・・という判断もあるだろうが、リスク高いしょ。不安になるしょ。
もし君に、同じ傾向の友人や恋人たちがいて、集団で一緒に投票行動を一致させる(政治グループの結成だ)ならもっと確率は高まる。
【2】・プールのおしっこでも路上のごみ捨てでも何でもいいんだけど、一人一人に分解していくと、その一人の行動が致命的な影響なんですか?といえばそうでないことはたくさんある。だけど結果的にはその集合体が、影響を与えていることは間違いないわけで(いや、プールのおしっこはどうかしらないけど(笑))。
そうすると、そういう行為を抑制するには、たまたま目に付いた、それをあからさまにやっている個人を(道徳的に)批判するしかないんだわ(笑)。いや路上へのごみ捨てと棄権は法律上の位置づけは違うけど、「俺一人の影響は微々たるもんでしょ?」という反論が意味を成さないという部分はどうしても出てくるんで、これはしょうがない。
【3】・あと、世の中においては何かの公的な活動に対して「神聖なものである」という虚飾をまとわせなければいけないことは多い。
納税もそうだろうし、もし今徴兵制度があったらその徴兵もそうだろう。裁判員制度への参加も、国民保険の加入や保険料の負担、(各国の)国旗や国歌の尊重・・・・・
これらは、スムーズに行うために、ただ単にやりなさいと国が権力で命じるのにプラスして「すっごく神聖なものなんです。国民たるものやらなきゃいけないものなんです」というプロパガンダをしているのです。だからある意味、リンク先の方はこの国家の総力を挙げたプロパガンダに洗脳されておらず、こちらは洗脳されているのかもしれない(笑)。
よく、「適当な候補者がいないなら、白票であっても投票すべきだ」という意見がある。
これは「白票があると、ああ全候補者者が信頼されていないんだな、と反省を迫れるから」という論理的な帰結の末に投票する人もいるだろうが「候補者がいようといまいと、その『投票』をすること自体になにごとかの精神的な意味、神聖ななにかがあるんだ」という、宗教的感覚を持つ人もいるだろう。
そういえば最高裁裁判官の国民審査は、ぎゃくに分からんよという白票はイコール信任だっけ。
まあとにかく、
「A/投票とは、自分の望むよりましな候補者に議会の権力を握らせるための政治行動(にすぎない)か?」
それとも
「B/そんな政治的な意味を超える神聖なものがあり、投票自体に美しい意味が存在するのか?」
上のリンクを批判する人は、自分はどちらの立場なのかということを自問すると面白いかもしれない。
俺はどちらかなあ。(B)に対しては森鴎外じゃないけど「本当に神聖かと問われれば根拠はないと心の中では思うが、神聖であるかのように扱えば、結果的に社会全体にいいことがあるだろうから、神聖なものであるかのように振舞う・・・・」という”かのやうに”精神だろうか。
もうひとつ、浅羽の本にあった話だと思うが
「投票するというのは、基本的に今の国家体制を認めます、という意味合いを持つ。野党に投票しようと与党に投票しようとだ。だからこそ権力は『投票率を上げよう』とするし、独裁国家は投票率99%や100%を誇示する。反政府ゲリラは『わがゲリラの政策に近い政党に投票せよ!』ではなく『投票ボイコット』を呼び掛ける」
という指摘をしていた。
国家体制というのは憲法に基づくのか、それとも歴史や伝統に基づく国柄の意味も含むのかは・・・それぞれの意識だろうけど、とりあえず「国家体制を信任します」との意味もこめて一票を投じたと考えれば、弱小政党への投票で死票となろうが、白票を投じようが、その政党が掲げた改革が実現せずに裏切られた思いをしようが、一票を投じたことすべてに意味があるですね。
国家体制を信任していないけど、「敵との妥協」「あくまでも戦術的に投票闘争をたたかうぞ!」ということで、なくなく体制信任もしつつ、よりましな候補・政党を応援する、こういう潜伏ゲリラの論理ももちろんしごくまっとうであります。