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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

なぜお米を弥生時代は「炊き」、古墳時代は「蒸し」た?~NHK「歴史探偵 日本人とごはん」よりメモ。

歴史探偵 日本人とごはん 2000年の秘密
10/23(水) 午後10:00-午後10:45
配信期限 :10/30(水) 午後10:44 まで

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公式サイト
注目の朝ドラ「おむすび」。今回の歴史探偵は、日本人のソールフード、ごはんの歴史を調査する。米の栽培が盛んになった弥生時代。すでに日本人はおいしいごはんの炊き方を編み出していた!古墳時代になると、ごはんに最大の危機が訪れる。古代人は、メシマズのピンチをどうやって乗り越えたのか!?「おむすび」で主演を演じる橋本環奈さんが登場。ごはんへの愛を語る。日本人とごはん、熱くておいしい2000年の物語。

www.nhk.jp

https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024102314400


10月23日

前方後円墳研究会のシンポでは、集落や古墳の動向からはこれが読み取れなかった、って結論が多かった記憶があったけど、むしろ土器の変化とか集落の立地、カマドや竪穴建物の構造の変化とか見た方が良かったんじゃない、って思ったのも、思い出した。
社長


あとは、寒冷化って急にガクンと下がるんじゃなくてそれより前から徐々に冷え込んでくるんだろうから、人的活動への変化はもう少し前に現れて、536年辺りにはこの辺に対処できるようになったから、その辺読み取れないんじゃないのかしら、とも思ったり。



ツイートで手を抜こうと思ってたが、ダイレクトな内容のがないのでメモ


弥生時代はお米をどう料理していたか?は最近まで「究極のミステリー」と言われるほど謎だった。
・だがこの番組では「炊いた」という説を有力として提示
・その炊き方は、まずお米を多めの湯でゆでて、沸騰したら傾けてゆで汁をこぼす(カップ焼きそばのように)
・そして傾いたまま、火に当ててまんべんなく米を調理する。
・これらは土器の焦げ方やゆで汁の後などからの推測。寸胴から丸い形状に、さらには台座付き…という形の変遷もお米を美味しく炊くためだ、という。
当時の主流のコメは「熱帯ジャポニカ」であり、同じ品種を食べる東南アジアは、今もこの調理法に近いという。


・だが古墳時代に、お米が「炊く」から「蒸す」調理法となった。
・そういう土器がいろいろ出土している。

古代の蒸し器

・しかし、その前の炊くというか茹でる方式より薪が必要となる。なぜ燃料を食うこの形式に?
・大きな謎として、これまでも語られていた。
・実は古墳時代、始まったばかりの稲作がピンチになった それはこの時代、急に寒冷化があったのだ。天明の飢饉より平均気温が低いほどの…現代と比べると5度も低い。


※年輪から気温がわかるらしい。この当時の気温が細かく解るというのは最近の研究の大きなトピックで、「戦国時代は寒冷期だったので米がとれなかったはず」云々と、歴史上の事件や変動を気候から分析する動きも増えている
m-dojo.hatenadiary.com

桶狭間戦記 戦国時代は寒冷期だった

・そのため、栽培品種はジャポニカだったが寒さを受けて「熱帯ジャポニカ弥生時代の主流)から温帯ジャポニカ」に変化した(ある人の説だが)。
・これは水田跡に残る、植物細胞のガラス質繊維で地層に残りやすい「プラントオパール」を調べると品種が判明する。
・温帯ジャポニカは収穫も多い。
・しかし、熱帯と温帯ジャポニカ両方を混ぜてお米を調理する際に、従来の茹で・炊き方式だとおいしくない。ムラができて芯が残るのだ。 
・しかし「蒸す」方式だと、けっこういい塩梅においしいごはんができる

・・・・・・・とのこと。


・ちなみに、この「蒸す」方式だと、そのお米を乾かすと、その後水やお湯で戻したときに、他の調理法よりいい感じになる。
・それが戦国時代の兵士の兵糧「干し飯」。保存性によく、水で戻りやすい。蒸したご飯は水分が3割ほど少なく、カビも生えにくい。

・戦国時代の研究をしてる大学客員教授が「私も干し飯は知っていましたが、どう米を調理してるかと考えたことはなかったですねぇ」と感心していた。



・江戸時代は「炊く」方式に戻ったが、そこには技術の進歩があった
・それは、かまどで飯を炊くとき、飯の釜の蓋が「重い」こと。見た目でもわかる
・重いので蒸気をにがさず、おいしく炊ける。これが一大技術進歩だった。


※とすると足利ー新田の南北騒乱を、家紋になぞらえて「釜の蓋(足利)と鍋の蓋(新田)の争い」と言ったのは当時の言葉じゃなくて江戸時代に出てきた論評なのかな。

足利の家紋 新田の家紋 釜の蓋と鍋の蓋




以上、覚えておきたいことのメモ。1週間、ネットで無料配信中。




蒸すと炊くの歴史に関する資料

 ご飯には、米を直接水にひたす「炊く」方法と、水蒸気を利用する「蒸す」方法がある。炊く方法は軟らかくできるから姫飯(ひめめし)、蒸す方法は硬めにできるから強飯(こわめし)という。強飯の言葉は、赤飯などの「おこわ」に残っていて、結婚式などの祝いの席で食べられる。

 古代日本人は、どちらでご飯を食べたのだろうか。私の学生時代は、「稲作が伝わったころから蒸す方法で食べた」と考えられていた。甑(こしき)とよぶ甕(かめ)の底に穴を開けた土器が見つかったからだった。甑には米をいれ、水を張った甕に重ねる。甕の周りで火をたくと、蒸気が甑の底の穴から吹き上がって、米を蒸す。つまり甑は蒸籠(せいろう)の役割を果たすと考えた。

 しかし、発掘調査が進んでも、甑の出土数は少なかった。一方、「おこげ」が着き、吹きこぼれがスス状になった甕の事例が増えてきた。「蒸す」よりも「炊く」方が主流だったことを示す物的証拠といえる。

 考古学者の間壁葭子さんの実験によると、蒸す方法は、できあがりまで100分かかるが、炊く方法なら30分ですむ。しかも炊く方法では五目飯や雑炊など米の量が調整できる。弥生人は今と同じように、炊いたご飯を食べたのであろう。


 弥生人が米を「炊く」には、一つ課題がある。米と水をいれた甕を、安定させなければならない。

 福岡市宝台遺跡の調査で、分厚く作られた土器を3個置いた遺構が検出された。この土器はそれまで、甕などの器を安定させる置き台(器台)と考えられていたが、等間隔に3つ置く方法と、支座とよばれる良く似た土器が中国にあることから、器台ではなく支脚とわかった。長崎・壱岐の原ノ辻遺跡などには口縁部をくちばし状に引き出した安定感のある支脚があるが、これは形態的にも支座である。

 弥生時代には、炊いたご飯を食べていたと考えるのが自然だし、通説となった。

 ところが不思議なことに、弥生に続く古墳時代は、蒸したご飯を食べたと今でも考えられる傾向にある。理由はよくわからないが、竈・甕・甑をセットにした土器や、そのミニチュア土器がかなり出土していることも大きな要因と思う。
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