SFはアメリカも日本も、もともとばかばかしい空想を、裸の美女とモンスターとアクションでつないだだけの低俗な小説と言われてきたんです。でも、50年代にアメリカでプロパーSFが勃興し、一気に科学エンターテイメントの位置を確立しました。日本の戦後SFはこの50年代作品を目標にしてきたわけです。→
— 高千穂遙 (@takachihoharuka) May 8, 2024
それを実現させ、SFというジャンルを日本においても根付かせたのが、小松左京さんたち戦後第一世代作家で、初期のSFファンも、そこに重きを置いていました。それに納得していなかったのが、野田昌宏さんですね。その野田さんの薫陶を受けたわたしがスぺオペ作家になったのは当然のことです。→
— 高千穂遙 (@takachihoharuka) 2024年5月8日
もっともそれで、第一世代の方々には「俺たちが低俗と言われたSFを変えて、ここまできたのに、高千穂がまたもとに戻しやがった」とお叱りを受けたのは事実です。小松さんがスぺオペもいいじゃないかと支持してくださらなかったら、やばかったですね。野田さん、小松さんはわたしとスぺオペの恩人です。
— 高千穂遙 (@takachihoharuka) 2024年5月8日
ふーむ…「歴史は一直線には進んでいかない」ということと「低俗とされてすたれたジャンルも、続けていけばそこが文学の豊饒な土地になったのかもしれない」と思ったりする。
しかしどんな「ジャンル」が生き残るのか、これまたわからない。似たものを描いていた先輩作家が渋い顔をしたらすたれるのか、それらのボス、大御所が「ええやないか」と言ったら生き残れるのか、そこの因果関係だってはっきり言えば不明だ。
いま「悪役令嬢」でも「異世界スローライフ」でも「パーティ追放」でも、ひょっとしたらここから偉大な文学がうまれるやもしれない。