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古舘伊知郎のアナウンス、当時の評価と実情の研究ー書籍「『プロレス』という文化」より

「「プロレス」という文化」という本が出ました。

「プロレス」という文化:興行・メディア・社会現象

「プロレス」という文化:興行・メディア・社会現象

最近はノンフィクションなどが充実しているため、村松友視の「私、プロレスの味方です」
から始まった、 ちょっと文化論を絡めての評論書というのはかえって出しにくくなったような気もする。そんな中で出た本なんだが、全体の批評は略して、古舘伊知郎のプロレス実況を論じた箇所を紹介し考察したい。第3章「日本プロレス史の断章」の一部、「古舘伊知郎の実況とは何だったのか」から、抜粋し箇条書き。

古舘伊知郎は「テレビとプロレスの関係が一番良い時代 」の男だった。1987年に彼が辞めた翌週からテレビ朝日は「ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング」に切り替わったのだった。
・入社は77年。成績は及第点ギリギリだったが実技試験でプロレスの実況を披露し合格した。
・当初のプロレス実況はオーソドックスだった。1981年の前半から徐々に独自のフレーズが盛り込まれてきている。
タイガーマスクの動きをはじめは「超立体殺法」、その後「四次元殺法」に バージョンアップした。局内で「3次元だろうが」という批判があった(笑)
・ 伝説の田園コロシアム決戦から、古舘は意識的に実況スタイルを変え後の古舘節につなげた。
・テレビ局も古舘に注目し露出が多くなる。自分が作ったキャッチフレーズをまるで他人が言っているかのように語る「自作自演」の手法を使うようになった。
・ライバル曲の倉持アナは「アナウンスメントの方が先走りしている」などと批判的。
・ 一方で古舘は anan などの女性誌から観光ガイドまで読み込んで神フレーズやご当地紹介など盛り込んでだ
山本小鉄は、古舘があまりに現実から遊離した言語世界が展開するのについて行けず悩んでいたと言う(笑)。だが古舘が「いかがですか山本さん」とふるタイミングが絶妙だったので見せ場は作れた。

ここからが個人的には「ほう」と思った新情報なんだけど

・プロレス実況が人気の頃の古舘のアナウンスは「テレビ朝日の中では非常に低い評価だった」のだという。

これは古舘自身の証言がある。「局側の評価が皆無って言っていいぐらい低かったですからね。30%近い視聴率を取りつつもプロレスという鬼っ子番組だけに誰も認めてくれない。普通外部の評価が10あるとしたら、局内でも7、8の評価はあるのに、僕の場合は(外が)10とゼロ」

でもそこから逆に舞い戻ってきて、看板番組「報道ステーション」のキャスターを務めたわけだから、ある意味男冥利に尽きる話ではあろう。

彼が21世紀に、引退選手のエキシビションか一夜のカムバックかのように、格闘技中継に臨んだのがこれだ。

Dynamite! 2002 入場シーン古館実況
さてここからは僕の思い出話も付け加える。
自分も古舘伊知郎の実況中継は、革命的なもので名実況だったと評価するが、その期間は非常に短かった、と思っている。
レスラーの個性や技、軍団などを数々の比喩表現、例えばなしで表現する、キャッチフレーズを作るのはいいのだが、そりゃプロレスラーなんだから基本的には迫力ある字じゃないとダメでしょう。
ところが結局古舘伊知郎は、そのバラエティ施工というのか本質的な好みというのか、あるいは単純なネタ切れか、「お笑い」的なキャッチフレーズをどんどんつけるようになってきた。体感的記憶で言うなら、 第1回 IWGPの 決勝などは、「ヘラクレスの息子アントニオ」「現代に蘇ったネプチューン、アックスボンバーは三又の槍」「猪木の魂のゴングよ鳴れ」など至極真面目な名調子だった。
ところがその後、ブリティッシュブルドッグスを「戦う二人羽織」、マシン軍団を「肉体ペアルック」この前逝去したキングコングバンディを「戦うマシュマロマン」などとな……思わずプッと吹き出すお笑いのキャッチフレーズをプロレスラーにもつける、 というやり方その後のその後にはありだったかもしれんが、当時としてはやっぱり「なし」だったろう。



なお、上で 紹介した、 レスラーの古舘風キャッチフレーズに対する違和感というのは、何も今、後付で考えたわけじゃなく、 当時、ただのガキだった私が、 リアルタイムで感じた違和感だった。 だからこそ今でもスラスラと古舘批判をつむぎ出せるのだ。こんなどうでもいいこと、覚えてる自分が我ながら無駄だと思う(笑)。