この場合の「使えそう」とは、あとで「以前、あなた自身がこう言ってたじゃないすかあ」とやれる、という意味である(笑)。
「Aに抗議したのならBにも抗議しろよ」「Aが差別ならBだって差別だろ?」
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) December 8, 2021
「Cの弾圧に反対の署名を集めた以上、Dの弾圧にも反対署名を集めないとスジが通らない」とか言ってる人たちって、棚に並んでいる商品を全部買うのか、ひとつも買わないのかの選択肢しか想像できないのかな。
オレが東京電力なら、山本太郎みたいなバカを飼っておくだろうな。ああいうバカを泳がせておくだけで、脱原発の運動全般をバカな騒ぎに見せかけることができるんだとしたら、安いものなんじゃないか?
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) November 9, 2013
テレビ経由で拡散される言葉は「発言者本人の意図」とは別に評価されるべきだ。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年6月18日
「愛情をこめて『バカ』と言った」
「親しいからこそ『手首を切るブス』と言った」
は通用しない。
メディアに乗った言葉は、発言者の「つもり」を超えて、拡散され利用され社会に害を与え、他者の尊厳そ毀損する。
このツイートがタイムラインに流れてきた時のことはいまでもおぼえている。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月6日
え?
と、息をのんだまま、しばらく考えこんでしまった。
こういう人たちには世界はこんなふうに見えているということなのか、それとも世界をこんな感じで描写することをマネタイズする生き方があるということなのか。 https://t.co/GMJjDqNDJk
ある教団にマナーの悪い信者がいたのだとしてその事実をとらえて「〇〇教の信者うぜえ」と、主語を大きくして騒ぎ立てる態度は、個別の信者のマナー以上に有害で、実際、「○○人は泥棒だらけ」「○○民族はレイプ民族」「○○大の学生割り算できなくてワロタ」式の断言と大差ないと思う。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年5月7日
プロ野球の投手に
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年6月18日
「プロならオレにも打てる球を投げろ」
と言う素人は少ない。
ところが、プロの文筆家は
「プロならオレにわかるように書け」
と言われる。
お答えしておく。
一流のシェフは、犬が喜ぶ料理を出さない。作れないからではない。犬の舌に合わせるのは、客に失礼だからだ。
初心者でもトラップできるゆるいパスだけが正しいのではない。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月6日
出し手の意図を事前に察知して、スペースに全力疾走しないと追いつけない最高難度のスルーパスだけが、敵方DFの守備網をあざむくことができる、まあ、文体とパスは同じものではない。でも、ゆるいパスだけのサッカーは退屈だよ。
1990年代以降
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月6日
「海外では」
「欧米では」
てな調子で外国を持ち上げつつニッポンの現状を見下す人々が
「出羽守」(でわのかみ)
と呼ばれるようになった理由は、「出羽守」が増えたからというよりは、むしろ、「出羽守」に痛いところを突かれたと感じる人が増えたからなのだと思っている。
世に言う「正義は暴走する」論は、
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月6日
1.おまえらみたいなバカの正義は暴走しがちだから、うっかり正義とか言っちゃダメだぞ
2.オレみたいな冷静で賢い人間の言うことを鵜呑みにしておくのが賢明なのだからして、オレのオンライン交流サロンに登録しやがれ下層民めが
の2点に要約できる。
オレが品のないツイートを書き込んだ時に、世間の美意識と善意を代表するモラルの化身みたいな調子で絡んでくる人々は、別の局面ではポリティカルコレクトネスの行き過ぎを嘆き、言葉狩りのもたらす表現の萎縮を憂えてやまない表現の自由戦士だったりするのだと思っている。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年6月12日
特定の言論あるいは表現に対して、それを批判する言論なり表現が対抗的に登場することは、むしろ言論・表現の自由を体現している状況だ。「弾圧」という言葉は、行政当局なり警察組織なりの公権力が介入した場合に限って使うのが普通だと思う。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2018年6月13日
「歌詞が気に入らない」と感じ「歌うな」と発言することもまた「言論」「意見」「表現」であるということがどうしてわからないのか。「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ。 https://t.co/bWHis6Es6g
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2018年6月13日
雑誌の編集者は、「自腹で読者ハガキ送って来てる時点でマトモな人間じゃない」と、異口同音にそう言って無視するべく努めていながら、マニアのハガキに引っ張られて自滅して行ったものだった。パブリックコメントも同じだ。わざわざコメントを送って来てる時点で、ニュートラルな意見ではない。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) August 2, 2019
「結果として優れた表現や美しい表現に結実するのであれば、その範囲内で自由な表現活動が許される」なんていうのは、表現の自由ではない。表現にかかわるすべての人間による、あらゆる種類の失敗と不謹慎と下品さがあらかじめ祝福されているのでなければ表現の自由が保障されているとは言わない。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) August 4, 2019
人それぞれ問題意識には多少の違いがあって、いずれを優先するのかは個人の問題では? RT @UCaty 「在特会」には牙を剥いて、片や下の英雄橋のような風評被害撒き散らす輩は放っておけったってそうはいかねーよ…福島の農作物の風評被害煽るバカたちの方にだって被害者はいるわけでね。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) March 31, 2013
言論でメシを食っている人間が「絡まれた」だの「絡んだ」だのという認識で世界を見ていること自体、なさけない話です。相手が誰であれ、どんな団体であれ、疑問に思ったことは文字にして明らかにするのが我々の仕事です。「絡む」だの「絡まれる」だのは、そこいらへんの半グレのセリフです。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) July 23, 2021
自分への批判は、ライターやコラムニストになりたかった人たちだ
…今回の騒動が勃発して以来、私のツイッターアカウントには、
「常々右派論壇を揶揄嘲笑していながら、その右派論壇に接近しつつあった『新潮45』に唯々として寄稿していたオダジマのダブスタにはまったくあきれるばかりだ」
「仕事にあぶれたロートルが休刊に発狂してて笑える」
「自分がカネもらって原稿書いてたくせに、他人事みたいに編集長をクサしてるのは、オダジマが少なくとも恩知らずのクソ野郎だということだよな?」といった調子の攻撃のツイートが多数押し寄せている。
雑誌の休刊に類する破局的な結末は、ある種の人々を興奮させる。
もう少し実態に即した言い方をするなら、雑誌の休刊や著名人の転落にエキサイトするような人々がネット社会のある部分を支えているということだ。彼らの共通項は、既存のメディアを憎んでいるところにある。
おそらく、公式非公式を含めた新潮社のチャンネルには、私のところに寄せられたのよりもさらに辛辣かつ残酷なツイートやメールが殺到していることだろう。だが、その種のクレームや中傷や非難や嘲笑は、結局のところ、問題とするには足りない。
というのも、メディア企業に粘着するアカウントの多くは、つまるところ、自分自身がマスコミに就職したくてそれがかなわなかったいわゆる「ワナビー」であり、同様にして、ライターやコラムニストに直接論争を挑んでくるのも、その大部分はライターやコラムニストになりたかった人たちだからだ。
彼らは、メディアの中で発言している有象無象の低レベルな論客よりも、自分の方が高い能力を持っていると思っている。にもかかわらず自分に発言の場が与えられていない現実に不満を感じている。だからこそ、彼らは何かにつけて突っかかってくる。
実際、私のツイッターアカウントやメールアドレスには
「たいして根拠もないことを書き飛ばしてカネを貰えるんだから、コラムニストっていうのは楽な商売だな(笑)」
という定番のツッコミが、定期的に寄せられる。
私は、たいていは無視しているのだが、ときどき、「コラムニストは楽な商売なので、あなたも転職すると良いですよ」
だとか
「たしかに、才能のある人間にとってコラムニストほど楽な商売はありません。毎度ありがとうございます」
という感じの回答を返してトラフィックの増加に寄与することにしている。
彼らは恐るるに足りない。むしろ私が恐れているのは、何も言ってこない人々だ。
香山リカ氏、室井佑月氏のも収録しておこう
沖縄だけじゃないよ! 日本の良心がある人はみんなついてる! https://t.co/EcFqArOo4h
— 室井佑月 (@YuzukiMuroi) October 14, 2019
「通常の日本国民」は大村知事を支持してますよ。#あいちトリエンナーレ は、過去最高の来場者数だそうです。 pic.twitter.com/T5JIwztqg2
— 香山リカ (@rkayama) October 11, 2019
愛犬家アピールが支持率向上に寄与すると思い込んでいる政治家がいるのだとしたら、その政治家は、心のどこかで国民を犬と同一視している人物でもあるのだろうな。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) April 12, 2020
twilogを掘って過去tweetと最近のtweetの矛盾点や食い違いを指摘して来るアカウントがいる。「直近ツイートBの内容は過去ツイートAが攻撃していた態度そのものに見えるが」とか。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) August 16, 2018
毎度毎度「ご指摘の通りだがそれがどうした?」としか思えない。
いま、世間では
「苦情を言う人」
「抗議する人々」
「不満を述べる人間」
「怒りを表明する者」
「群れ集って抗議行動を起こす団体」
に対する、忌避感が急速に高まっている。
「あーあ、めんどうくさい人たちだなあ」
てな調子で
彼らは、自分たちに向けられた、抗議・告発・怒号が、自分たちの行動や言葉に由来する反応だとは考えない。
彼らは、それらを、抗議・告発・激怒している側の感情の問題として定義し直す。まるで魔法みたいな論理だ。
次に、彼らは告発の主客を転倒させる。
自分が告発者を怒らせたというふうには考えない。
その代わりに、自分が告発者の怒りの対象になったと言い換えることで、自分を「透明な存在」に置き換えつつ、告発を、相手側の感情の問題として外部化するのである
彼らはあらゆる抗議から身を遠ざけ、すべての感情を他者の理不尽な情動の結果として退け、それらを「お気持ち」と呼んで嘲笑することで、マジメに取り合わない体制を固めている
まっとうな謝罪のテンプレートを世間に示すことができなかった点だ。常日頃は、不祥事に関わった人物や組織に謝罪や弁明を求める役割をこなしている報道機関なればこそ、自分が謝罪せねばならない場面に立たされた時には、世の模範になる百点満点の謝罪を提示せねばならなかったはずだ。
テレビの画面の中で、COVID-19に対して、公の機関が取るべき対策やら予見やら予測やらべき論やらスジ論を並べ立ててみせている素人の顔を見るたびに、正直な話、私は、苦々しい気持ちになる。この気持ちを相対化することは、とてもむずかしい。考えを持つことそのものはかまわない。
かく言う私にだって一定の考えはある。コロナ関連についても、独自の見解を持っていないのかと言えば、いくつか思うところはある。自分では相応にまっとうな見識なんではなかろうかと自負してもいる。
とはいえ、その自分の内部にくすぶっている独自見解を、私は口外しようとは思っていない。
少なくともCOVID-19について口幅ったいことは言わずにおくつもりでいる。なぜというに、私は感染症の専門家でもなければ、政策立案について勉強した人間でもないからだ。それに、なにより自分の発言に責任を取る義務を負っていない。とすれば、私の言葉は「放言」に過ぎない。そんな人間が、思うところを自由に公言して良いはずがないではないか。
テレビは、ここへ来て
「言いたい放題」
の出演者が
「思いつきの言葉を拡散して」
しかも、
「誰も責任を取らない」
ダメなSNSみたいなメディアに変質しつつあるわけなのだ。
business.nikkei.com
とにかく、「朝ナマ!」という稀有な番組は、あれは、実に、ダメな言論人をふるいわけるテレビにとっての天然の濾過器みたいな装置だったわけだ。
田原総一朗さんが、いつまで達者でがんばってくれるのか、少し不安ではある。ただ、私個人としては、日本のテレビを正常局面に戻すために、ぜひとも「朝ナマ!」の存続と再活性化を希望したい。
変な結末になってしまった。
アタマの中で数え上げてみると、「朝ナマ!」に出てきてほしい人はたくさんいる。
参考出展。 pic.twitter.com/jSd9wwWHoK
— ソーラン節 (@newzakijinsei) July 23, 2021