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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

新井白石と「思想的名勝負」をしたシドッチの遺骨見つかる。白石のその後も含め、思いを馳せる。【記録する者たち】

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切支丹屋敷の人骨 新井白石に影響与えた宣教師か | NHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160405/k10010468191000.html


江戸時代に外国人宣教師が収容されていた東京・文京区の「切支丹屋敷」の跡地から人骨が見つかり、DNA鑑定などの結果、西洋文化に関する書物を著したことで知られる儒学者新井白石に大きな影響を与えたイタリア人宣教師の可能性が高いことが分かりました。
(略)
文京区などでDNA鑑定などをした結果、このうちの1体が、イタリア人の特徴と一致し、骨から推定される身長や年齢の特徴などから、イタリア人の宣教師、ジョヴァンニ・シドッチである可能性が高いことが分かったということです。
シドッチはキリスト教の布教のため1708年に屋久島に上陸して捕らえられ、切支丹屋敷に収容されましたが、シドッチから聞いた話を元に江戸時代の儒学者新井白石が書物を著し、西洋文化を広めるきっかけになりました。
文京区は、「宣教師として来日して日本で没した外国人の中で、個人を特定できたケースは極めて珍しい(略)」……


シドッチ!!
自分は新井白石の「西洋紀聞」の現物を東洋文庫で読む…ほどの知識人ではないが、カゴ直利版の「日本の歴史」で、白石を描いたエピソードに登場した。今思えば、白石評価はかなり旧来的な「正徳の治」の描き方だったが……


その後の言論人で、「白石ファン」と呼べそうな人は羽仁五郎司馬遼太郎藤沢周平高島俊男……などで、立場は実に多彩だ。


その中で、自分の手元にいまあるのは高島俊男氏の本なので、そこから白石とシドッチのかかわりを紹介したい。
うーむ、長いのでこれも画像でやらせてもらいます。




例によって、画像をクリックして「オリジナルサイズはこちらをクリックして表示」でもっと鮮明に読めます。


重複しますが適宜、テキスト化します

「西洋紀聞」が非常に感動的なのは、この西洋と日本の二人の俊秀がたがいにみとめあい、心をかよわせたところにある。
シドッチは四十一歳で日本に来た。さsうがにローマ法王からえらばれただけあって信仰は強固であるし、頭脳も明晰、かつたいへん博識な、すぐれた人物である。しかし日本にキリスト教をひろめにきた罪人でもある。裁判官と罪人という出会いではあったが、この命がけの宣教師に白石はむしろ同情的であり、彼の言うことをよく聞いてやろう、客観的に評価しよう、という気持ちで接している。十分に敬意を持ち、シドッチが正直なまじめな優秀な人物であるとみとめ、礼儀正しい、きちんとした人物である、とほめている。
シドッチのほうでも白石を評して「世界には五百年に一人ぐらいこういうすぐれた人物があらわれるものだ」と言ったとつたえられている。


しかし、高島流のきびしくも鋭い指摘がある。
シドッチはすごく博識であり、それを新井白石は公正に評し、敬意を持ったが、肝心のお調べの中で、シドッチが「キリスト教の教義」を説明すると…

「其教法を説くに至りては一言の道にちかきところもあらず、智愚たちまちに地を易えて、言を聞くに似たり」
「荒誕浅陋、弁ずるにもたらず」
とあきれている。これを、さすがの白石もキリスト教については視野がせまかった、という人もあるがそうではない。白石は良識的であり、キリスト教がまさしく荒誕浅陋なのである。白石の感想をつうじて、白石がまなんだ支那思想が、合理的であり理性にかなったものであることがわかる。

ちなみに、西洋紀聞では外国語をかくのにカタカナをつかう、という手法や、音をのばす「ー」の表記を試みるなど、表記的にも画期的で、白石の言語感覚を示しているそうであります。

西洋紀聞 (東洋文庫 (113))

西洋紀聞 (東洋文庫 (113))

この二人の対話は、演劇になるのでは?と、三谷幸喜の、思想的対立?をこめた二人芝居「笑の大学」を見て思ったりしたこともあった。

笑の大学[DVD] (PARCO劇場DVD)

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  • 作者:三谷幸喜
  • 発売日: 2012/04/01
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しかし白石も「儒教徒」だった。もうひとりのライバル、萩原重秀。

だが
しかし。
このブログでも何度か書いているが、白石は持ち上げられすぎていると考える一派もいて、大石慎三郎氏が考察し、それをもとに井沢元彦氏がわかりやすく書いている話がある。特に、白石の別の意味での「ライバル」で、しかも白石は敬意でなく異常なほどの敵意と憎悪をもやした人物「荻原重秀」を通して…荻原の二つ名は「貨幣思想の父」。(…と別に呼ばれてはいないが)

大石氏が名著の呼び声も高い「将軍と側用人の政治」(講談社現代新書)の中で萩原の貨幣改鋳については、こう言っている。

「彼は当時、『本来、お金と言うのは何でもいいわけで、瓦でもいいのだ』といっている。…現に我々もただの紙切れをお金と信じて使っている。そういう『通貨の本質』を最初に見抜いて通貨政策に応用したのが、荻原重秀だった」
「それとは正反対の白石による(通貨の金含有量を再び増やした)正徳金銀改鋳は、景気を縮小させてしまう。これ以降、江戸社会は『白石デフレ』と呼ばれる猛烈な不景気に見舞われるのである。・・・経済政策については、荻原重秀のほうに軍配を上げざるを得ないだろう」

「地球日本史2」からも引用する(宮本又郎・大阪大教授)。

「推計では、85%貨幣発行量が増加した。…現実の物価上昇率は15%に止まった。改鋳は物価の差ほどの上昇を伴わず、景気を浮揚させる効果を持った」「今日のマクロ経済学的見地からすれば経済の実態に合わせ、貨幣供給量をコントロールするのは通貨当局の重要な仕事である。重秀は、貨幣史上のイノベーター…評価するべきだろう」

「三王外記」に残された荻原の言葉
「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」は、「貨幣とは、金などの裏付けがなくても国家的信用をもとに発行しえるものなのだ」との理論(直観?)を宣言した画期とされる。



井沢氏は、この軋轢と、白石の重秀断罪は、白石の無知や不勉強というよりは、白石は「儒教という宗教」の信奉者であり、「商売とはものを生み出さずに不当に儲ける『悪』である」という教義、ドグマから逃れられなかったからだ…としている。

儒学それも朱子学は一種の宗教であって、世界の成り立ちなどについても陰陽五行説など、今日の科学常識から見たらあり得ないことを信じる。そうした影響を受けた白石が、信念として持っていたのは「金軍は国家の骨格である」という「迷信」であった。

白石が、シドッチの「教義」を弁ずる姿勢を、『智愚たちまちに地を易え』と評したように、荻原も白石を評していたのだろうか。

wikipedia:荻原重秀
従来この貨幣改鋳は経済の大混乱を招き、未曾有のインフレ(元禄バブル)をもたらしたと考えられてきたが、金沢大学教育学部教授の村井淳志の研究によれば、元禄期貨幣改鋳の後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度と推定され[1]、庶民の生活への影響はさして大きなものではなく、また改鋳直後の元禄8・9年に米価が急騰したのは冷夏の影響としている[2]。その一方で、改鋳により豪商や富裕層が貯蓄していた大量の慶長金銀の実質購買力は低下し、商人たちは貨幣価値の下落に直面して貯蓄から投資へ転じた。こうして従前は幕府の御金蔵から商家の蔵へ金銀が流れる一方だった経済構造に変化が生じ、これ以上幕府財政に負担をかけずに緩やかなインフレをもたらすことが実現された。その結果経済は元禄の好景気に沸いたのである。現代の観点から、重秀の最大の業績はこの改鋳であり、この改鋳を「大江戸リフレーション(通貨膨張)政策」と評価する説もある[3]。綱吉時代が終わり、新井白石らがこの政策を転換して以降の経済停滞は「白石デフレ」とも呼ばれる。

白石の晩年は「失脚して友人も少なく『俺は偉いんだぞ』と自慢と回想を言い続ける愚痴じいさん」だった…

「年取ってやっちゃいけない話は、
説教と昔話と自慢話。
だから俺はエロ話しかできないんだよ」
(高田純次)

それといっしょにしちゃいけないけどさ(笑)

白石は徳川吉宗によって、お役御免となり、国家運営の立場から離れる。白石60歳。その後、9年の生があった。


「日本の自伝文学の傑作とされているが、自伝文学といったってほかに自伝はなかった」と高島氏は書いている(更級日記とかはどうなんだろう、と思うけどそれはよくわからない。まあ、稀であることは事実)。


この晩年の鬱屈やあがきを、高島氏は共感と痛々しさの両方をもって見つめている。
お言葉ですが…」11巻から。

お言葉ですが…第11巻

お言葉ですが…第11巻

白石は、ケタはずれに優秀な人であった。そのことを一番よく知っていたのは、当人自身であった。彼はそれを語り続けた。だれにでも、どこにでも。
(略)
だから人に嫌われた。そこで彼は、後世に向かってそれを語った。(略)シドッチは「世界には500年に一人ぐらいこういう人が出る」と嘆息した。それをわれわれが知りえるのは、白石がそのことを、世界にむかって語ったからである。
(略)
彼が最も心を傾けて語った相手は、仙台の学者佐久間洞巌であった。失脚後手紙で知り合った、一度もあったこともない人である。
<老朽は夢ほどの学文候と名誉の清朝・朝鮮・琉球・阿蘭陀などへ聞え候て、亘理来り候ものものヽいかゞが無事に候かなどたづね候…>
「わたしの名前はね、北京、南京、琉球、朝鮮にまで知られているんです。ねえ、聞いてください」…

こころをひそめて「折たく柴の記」を読めば、初めからしまいまで、通奏低音のように老白石のつぶやきがきこえる。−おれはえらいのだよ、おれはえらいのだよ、おれはえらいのだよ、おれはえらいのだよ、おれは…


わたしはちかごろ、白石のことを考えると涙がこぼれるようになった。
先生きこえますか?三百年後の日本人です。先生が日本の生んだ最も偉大な学者であったことを、みんなよく知っていますよ。先生、語ってください…(後略)

新井白石と仙台の学者の書簡は
http://67488641.at.webry.info/201201/index.html
にて、非常に詳しく紹介されている。



そういえば、自分は忠臣蔵木村政彦をとりあげて「最後の勝者は『物語』」というテーマでよく書いていたのだが、そういう問題意識を持つ源流に、この白石の晩年を知ったことがあったのかもしれない。



そんな白石の著書は残り「正徳の治」という言葉は定着し、シドッチは遺骨が見つかり、荻原重秀はいまだに悪名のほうが勝るが一部に再評価の動きがある。


歴史とは……。

(了)


のちに書いた関連記事の一つ
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