メールマガジン「日本国の研究」に掲載され、それが公式サイトに再掲されました。
http://www.inose.gr.jp/news/post505/
- 作者: 増田俊也
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/09/30
- メディア: 単行本
- 購入: 21人 クリック: 475回
- この商品を含むブログ (131件) を見る
これがきっかけで、この本がそもそも生まれたのです(詳細は同誌に)
自分は掲載当時にこれを読み、直感的に「これは後世に残さねば!!」と思ってコピーしたことを覚えています。
木村の不滅の柔道記録を生んだものには常人の「三倍」をつねに自らに課した練習量があったのですが、その練習を支えるのは自らが自らに信じ込ませた「木村教」とでもいうべき神秘的なまでの必勝の信念、確信だったわけです。
その神秘的信念が、生涯ぬぐえない恥辱を「呪い殺す」ことに向かう・・・という。悲劇でもある一方で、ぞっと怖くなる話である。
http://www.inose.gr.jp/mailmaga/mailshousai/2012/120802.html
ロンドンオリンピックがはじまり、日本のお家芸である柔道に注目が集まっています。連夜の応援で寝不足がつづいている人も多いのではないでしょうか。
かつて無敵の柔道王と呼ばれた人物がいました。1937年からの全日本選士権3連覇をはじめ、日本一に五度輝いた木村政彦です。つねに「敗けたら腹を切る」という覚悟で試合にのぞみ、15年間無敗でプロに転向した稀代の柔道家でした。
しかし、柔道家としての華々しい活躍ではなく、1954年に蔵前国技館で行われた力道山との「世紀の一戦」で無残な敗北を喫した人物としての印象の方が濃いかもしれません。
猪瀬は木村政彦に直接取材したことがあります。テレビ放送の黎明期について描いた『欲望のメディア』(猪瀬直樹著作集7 小学館)の執筆過程で「世紀の一戦」の当事者にどうしても会って話を聞かなければいけないと思ったからでした。
力道山は「世紀の一戦」から9年後の1963年、チンピラにからまれた際の刺し傷がもとで亡くなっていますが、取材の際、木村は、猪瀬に「自分が力道山を殺した」と言いました。 いったいどういうことなのか。
*今週のメールガマガジンは、「ニュースの考古学」(93年5月6・13日付『週刊文春』掲載)にてとりあげた木村政彦とのやりとりをお送りします。このエピソードは今年、第43回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)にも引用されました。読み終わったあと、背筋がぞくりとするでしょう。
以前本人に質問したことがあるが、猪瀬氏(@inosenaoki )は取材テープ等を基本的に保存しているらしい。
http://togetter.com/li/53506
ということは、この「呪い殺した」と告げる木村氏の肉声も、探せば残っている可能性が高い。 増田俊也氏 @MasudaToshinari のような情熱と執念があれば、膨大な取材記録の中なら探し出せるかも・・・