INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

お答えしませう。

TBをいただきました。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091222/p1
に、どこから答えるかな。順番に行こうか。あとで参考リンクとかも張ります

(1)

…与党(当時)の国会議員が助成金を盾に取って国会議員向けの「試写」を一般公開向けに要求したことはスルーしてますな

わたしは別に、議員でも非議員でも(一般公開前の)試写会を要求していいと思ってます(この時は「事前に」とは求めていない、という主張もあるようだが)。で、配給会社がいやなら断ってもいいし、OKしてもいい。「一部の議員だけには見せられないが、全国会議員向けの試写ならやる」という決定でもOK。同時期に、スタンスの違う国会議員(加藤紘一)も別ルートでDVDを要求し一般公開前に入手、見ることができたようだがそれもOK(http://www.katokoichi.org/videomsg/2008/080418_3.html)。公権力による助成金の拠出に関して賛否をいうのもぜんぜんOK。つーか大いにやれ、やれと思います。


(2)

右派が「批判」すること自体を非難した奴なんていたか? 反批判の主眼は稲田朋美ら与党議員の圧力と、「チャンネル桜」に代表される右派の『靖国』批判の内容に向けられていたはずだ。

鈴木邦男氏は「書くのは自由。だが右翼を不必要にあおるな」(騒いだから右翼も動いた、の意)と週刊誌の批判記事を槍玉にあげてましたね。その後、鈴木氏は誠実にも、この主張は間違いであったと撤回しています( http://kunyon.com/shucho/080414.html )。

ちなみに、同種の論法を鈴木氏は週刊金曜日の「皇室コント事件」でも使い、東京新聞の取材に答えて、週刊新潮を名指しで攻撃していましたが、同紙は鈴木氏の主張への批判はせずじまいでした。
あ、あと森達也氏は稲田朋美批判の論法として「上映中止という顛末を予想していなかったのなら、国会議員としてお粗末」という部分を批判してます。(つまり下でも引用した、apemanさんらが批判したような「結果に対して責任を問う」やり方)



(3)

…ここで『悪魔の詩』翻訳者殺害事件に言及するのもずいぶんと恣意的なはなし。なんで嶋中事件じゃないの? それが古すぎると言うなら1998年の映画『南京1937』に対するスクリーン切り裂き事件のほうが1990年の翻訳者殺害事件よりよほど関連がある…

恣意的も何も「自分の勝手な興味に結び付ける」と宣言しつつも、テーマには間違いなくばっちり沿っているんだから、ご寛恕いただきたいものです。この話題はずーっと以前からブログで書いているし、というか先に対イスラーム表現問題としてはデンマーク風刺画を、私が問う前にid:hit-and-runさんも言及してたわけだし、「恣意的」という意味がまったくわからんわ(笑)。
かつて「わたしはチリ軍政についての批判はブログであまり書いていないが、それでシカゴ・ボーイズの手先扱いされても困る」といった趣旨のことを書いた人がいたような。
第一、風流むたんに関しても、スクリーン切り裂きに関しても、それ単体の意味でいうなら「人を刺すのは良くないね」「よその映画館の所有するスクリーンを切るのは良くないね」で終わる話で、あそこの話の流れからそれを持ち出したらそっちのほうがよっぽど「恣意的」です。
むしろより類似性を比較で語るなら「プライド 運命の瞬間」上映反対運動や「最後の誘惑」上映反対運動(キリスト教国での話し)かなぁ。デンマーク風刺画事件では、NHKが実際に世界同時配給された番組の一部をカットしましたね。
それとも「類似問題で起きた他の過激な暴力が、実際には過激行動が起きていない問題でもプレッシャーになる」という意味でそれをあげろということかな?でもそれ、「靖国」に関しては過去の事件を挙げるまでもなく「右翼の暴力(例=街宣車の騒音)の恐怖」のことをこの上なくはっきり書いているからなあ。つか、同じように対にさせるには「対イスラム表現問題での日本の萎縮」と「五十嵐助教授殺害事件」は逆にセットにすることが必須だし、そう書いているし。


というか、日本において「五十嵐助教授殺害事件」は犯人、犯行動機などが不明なのでテロと断定できないというハンデがあるはいえ、そもそもメディアや識者の言及が少なすぎるとは思いませんか?(毎年、テレビや新聞で「あれからXX年、事件の真実は」と報じられてもいいような気がします)「恣意的」と思われるのは、こういう問題の時に(なぜか)言及されることが少ないから、その雰囲気に流されているんじゃないかなあと思います。


おっ、「プライド 運命の瞬間」についてはこういうエントリがあった。ここでもスクリーン切り裂き事件が、関連する形で取り上げられているのだから、逆の関連付けで同作の上映中止要求騒動をApemanさんのほうから語っていただければ面白かった。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080408/p1

これはコメント欄( http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080408/p1#c )も興味深く、
「『プライド』批判者も、公開前の中止要求をしていたんですか」という趣旨のコメントに、
「こちらがふまえていることをそのままくり返したって意味はない」とブログ主は返している。


推論で補足すると、「靖国」問題に関しては「公開した作品を批判するのはいいが、『上映中止』を要求するのは、見る機会を奪うのだから表現の自由の侵害だ」という批判があったので、コメント欄によせた人は「靖国の上映中止要求が表現の自由の侵害なら、プライドの上映中止要求もそうですね」(だから靖国への抗議もOKでしょ、と言っているのか、プライドの抗議もNGでしょ、と言っているのかは不明)と言いたかったのだろう。いや、その下の「つづき」も見ると、それは(どっちも)けしからんという批判か。
それに対してブログ主は、それに対しては「こちらがふまえていること」だとしている。けしからんという見方を共有しているということかな。


ふーむ、「ある映画の、公開前上映中止要求」というお題が出てきた。
当然街宣車や脅迫電話による威力業務妨害によって、は論外としても、
違法でないかぎりで、ある映画に対して「公開前の上映中止要求」を行うことは、基のtakahashiエントリに引き付けて言うと「市民の自治」か「リンチ」か。



ちなみにコメント欄のやり取りでは、一般の人と異なる非正規ルート?で事前に情報を入手したかも、というコメント者の仮定について「一般公開を予定しすでに撮影も終了した映画の内容に関わる情報」(だから問題ない)という答えもあった。一般公開前と後、「一般公開を待って、普通に見てから批判すればいいのに、試写を公開前に求めたから問題だ」という上の「靖国」議論とあわせて考えると面白い。


(4)

表現の自由に紐をつけるな」というなら、「表現行為に対する批判」というかたちでの表現についてもやはり「表現の自由に紐をつけるな」と言わねばならないはずだ。とすれば、「表現行為に対する批判」が威力業務妨害や脅迫に該当しない限り、その結果(としての上映中止やら絶版やら商品回収やら)について責任を問われる謂れはない、ということになるはず。

基本、同意。
だから基の議論でいうなら、性的表現(かならずしも暴力的・差別的性表現限定は限らず)にせよ「この漫画は家父長制を肯定してけしからん」にせよ「われわれが敬愛する靖国神社への冒涜」にせよ、そういう批判が違法な形ではなく広まることで、自然と市場・社会から消える・・・となるなら、素晴らしいとは言わないが「まあ、最終的にはしゃあない」と思っていますね。
そこはもともと、http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091218/p2のブログ主とはスタンスが異なっているはずだし、議論がヒットアンドランさんと高橋さんの間では、はたからみれば相違点を持ちつつまとまってきているように見える。
別の角度からいうなら、表現に対する抗議と、その抗議によって生まれる結果的な自粛や封印は、その主張や結果自体への賛否は当然あるが、究極的な白黒に関しては、抗議行動が違法か合法かで判断するしかない…と言い換えられるか。


んで、私は「俺が前から言ってきたとおり!時代が俺に追いついてきた!」と思っているのです(笑)
あとで例示しますね。


つうか「・・・その結果(としての上映中止やら絶版やら商品回収やら)について責任を問われる謂れはない」というのは、まさに上の鈴木邦男の「靖国」や週刊金曜日コント事件での主張(現在は撤回)、森達也の放言に対する痛烈なる批判にになっているな。強力な援軍なり。


といっても、確かに「違法ではないが避けたほうがいい批判方法、違法ではないが自由を殺す批判方法」があるのも事実で、ここの個別の認定に関しては逆に、みなの受け取り方が違うのだろう。賛成しないが議員の試写会要求がそれに該当する、という人もいるだろうし、陵辱ゲームは取次段階で流通を止めよ、というのが該当するという人も、放送段階で風刺画シーンをカットするのがそれに該当するという人もあるやもしれない。
これは

(1)その抗議が威力業務妨害やら脅迫に該当するような水準に達しておりその暴力(の予期)に負けた場合、(2)威力業務妨害や脅迫の水準に達してはいない抗議だったのに、表現者がヘタレだったので自主規制してしまった場合、(3)威力業務妨害や脅迫の水準に達してはいない抗議だったが、抗議の趣旨はもっともであると表現者の側が納得して撤回した場合……といった分類が可能

という分類に近い。「表現の自由の弾圧、何が悪い」という人は右左ともにまれで、「わたしは(3)を勝ち取った」「何をいう、(1)だ」などなどで揉めるのだろう、昨今は。ついでにいうと、同じ問題への批判で、片方の団体や個人は(3)を目指しているのに、別の過激な愚か者が意識的にか無意識的にか(1)へ突っ走る、ということもしばしば。

ああそうだ、週刊金曜日の皇室コント事件では
当人たちは(3)だといっているものの、応援団が(1)だとテレビで断言したりしたっけ。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080901#p4


んで、「時代が俺に追いついたなあ」と思うあれこれの過去ログ。
■1
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080403#p4

……「無形の圧力」とか「意図するとしないとに関わらず圧力」と批判し、そういうこをとやるなと命じるのは、結局は法や実体の裏づけが無い以上、「遠慮しろ」という形で本来自由な、少なくとも「やってはいけない」と明記されていないことを制限するという点では、逆に自由や権利にとっての脅威となり得るんだよ。

だいたい「無言の圧力を感じる」というのは、たやすく新聞記者やテレビ局の「取材」「記事掲載」というものにも敷衍できる。あれは実際、被取材者にとっては相当の「無言の圧力」だろう。
あとで「それとこれとは違う」と言っても遅い。
(略)
というかね、週刊新潮記者でもいいや、一期限りは恐らく確実の(笑)稲田朋美議員でもいいや。

「こんな事実を知った。批判(&調査・取材)したいんだけどな。でもやると街宣右翼が(彼らに対して)騒ぐからな。批判(調査・取材)は控えよう」
こんな心の動きで自粛したら、右翼の影響を予想することによって行動を規制されるという点では、映画館の上映中止となんら変わらないではないか(爆笑)

※「一期限りは確実の稲田朋美」という部分では見通しを誤ってしまったが(笑)


■2
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080403#p5

今回の「靖国」上映問題は「ムハンマド風刺画問題」とかなり共通すると以前も書いた。
その中でもつい最近、天下のNHKが自粛したという意外な事実が・・・・

※この時期から、絡めて論じているんだから(笑)。ヒットアンドランさんも例示した「聖★おにいさん」についてもいち早く!


■3
おおこんなのもあった
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090808#p4

・・・権力者・秋葉市長が集会日程の変更を主催者に「お願い」しようと、権力者・安倍官房副長官が「公平公正にやってください」という範囲でNHKに「要請」しようと、個人的にはどっちも自由にやりなさい、っていうのが一番のやり方だと思う。後はそういう意見や要請を自由に受け手が判断すればいい・・・

※両方を認めるという主張にぶれなし。


■4
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090617#p4
では
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-19.html
の、佐藤優氏への批判を紹介している。

佐藤氏は、オリックス宮内義彦会長の発言に対しても、「北海道の右翼が情けないですよね。街宣車で会社の回りをグルグル回るというようなことをして、怖いと思わせなければ、こういう発言はやめないですよね。「発言は自由である。しかし、それには責任がともなう。これが民主主義だ」って」と・・・


■5
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080404#p3

「話し合い」「要望・要求」のルールは受け手側が一方的に設定せよ

あと、上映中止を求める右翼が、映画館経営陣に「話し合い」を要求する例もすでにあると聞く。

で、ここで映画館側にやってほしいのは、そりゃ映画館へのご意見を聞くことは必要な場合もあると思うが・・・たとえば「上映中止や上映延期の要望は全てメールのみでお寄せ下さい。面会要求はあらかじめお断りします」と宣言することだ。複数の上映館が一斉に宣言してもいい・・・・

※これ、基の高橋ブログコメント欄で展開されている「『押しかけ』論」のさきがけと、ひそかに自負しちょります。


■6
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090320#p7

もはやこのホテル、当事者能力が無いと言っていいから、ホテルを売却したらどうかと思う。

この系列資本に。

※施設を貸す、貸さない というのが「社会による圧力」の話にもつながると思い関連紹介。
当然ながらわたしゃプリンス批判側で、同ホテル批判を寸鉄のパロディという形でやり、個人的には気に入っている(笑)


■7
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080418#p3

善光寺・聖火出発場辞退」は思想的大問題。「安全の不安」か「チベット問題に抗議」かで180度違う。では両方だったら?

※(1)(2)(3)の差異、そしてこの考察はさらに一歩進んでいて、それが混合された時の厄介さを論じている。


■8
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070123#p4

・・・ドイツとか多くの国で、「ハーケンクロイツ」というシンボルは禁止されているのだから、ハンマーと鎌のシンボルを禁止するのも「たたかう民主主義」の理屈を肯定するなら、肯定できちゃうわけだ。かくいう俺は(略)好きで、いくつかグッズを持っているんだけど。

※「たたかう民主主義」論、表現規制
================



さがせばもっと触れているのもあると思いますが、上のエントリから枝上にも伸びていると思うのでそちらにもご留意を。


23日追記

http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091222/p2
にてご返答を頂いたので簡単に。このエントリの上部分で便宜的にふった番号を使ってご返答いただいているので、それに「’」をつけて主な部分を再論します


(2’)

要するに右派が『靖国』を批判すること自体を批判する者はいなかった、ということでいいんですな? 

一応、最初に例示した「雑誌は煽らないでくれ」とか「貴方の批判が契機でこんな大騒動になり、結果的に上映中止館が出ると予測できなかったのか?できなかったならお粗末だ」というのは違法性を問うてるわけじゃないないから「批判自体への批判」と定義できると思うんですが。これは批判内容への批判、という定義をされているのかな。
もう少し、あの後に発見したものを付け加えます。
李監督は、「出演者の一人はだまされたと言ってる」というような形で映画を批判した有村治子議員にこう再批判を加えました
「こういう内容を扱った作品の出演者に対して、一国会議員が直接連絡を入れること自体、許されることなのでしょうか」
これは批判の内容、やり方への批判だとなるかもしれませんが、ただ元の議論、本題に戻して
「違法でない形での、反対運動の自由はどこまであるか。」
という議論の中で、よりその自由を大きく取るスタンスに立つならこの監督の主張は「監督が『作品への批判の自由』を制限しようとしている」となるのでは?

あとひとつ、篠田博之「創」編集長も起草にかかわった日本ペンクラブ声明を発見しました。
こちらはもっと明快です。
http://www.japanpen.or.jp/statement/2008-2009/post_36.html

・・・暴力によって強引に反対意見を封じ込めるだけでなく、反対意見の発露という形をとりつつ実質的に意見交換の機会を奪う動きや、面倒ごとを畏れて自主的自発的に場の提供を渋る雰囲気が蔓延してきている傾向を看過できない。

うむむ。篠田氏の真意は。

「映画「靖国」批判も、批判者は「私たちはあの映画の社会的責任を、社会的に問うているのだ」と正当化できるのではないかと」などと書く意味がどこにあるのか。

これは、最初に頂いたレスで、抗議によって表現が消えるのにも(1)(2)(3)と整理なさってますね。またわたしがピックアップした、「善光寺の五輪聖火リレー辞退」もそうですね。で「映画『靖国』が上映中止に追い込まれた」という時には1-3がごたまぜになりがちなので、あの議論の中で(3)<を主観的に追い求める>人を提示したのはなかなか悪くなかったと思います。
ああ、でも今思うと、そのあと街宣車にも触れているとはいえ「批判者の一部は」とか「批判者の中で、暴力や法的規制に訴えなかった人は」と書いたほうが、より意味が通じやすかったですかね。



(3’)

靖国』に関してはいわゆる街宣は大した規模ではなかった。それでも街宣が効果を発揮するのは物理/身体的な暴力の予期があればこそ、じゃないの?

リアルタイムでの文章でも書いていますが、まさにそうだと思いますよ。で、構図としては「NHKが世界同時配給のドキュメント映像を編集するなど、デンマーク風刺画問題での自粛」も、五十嵐助教授殺害事件、また2004年にイスラム的な陋習を批判する作品を作ったオランダの映画監督が殺害された事件などで「暴力の予期」があったというふうな可能性が高いと思いませんか?これも人の心の中なので、(1)か(2)か(3)かは分からないんですけどね。
太田光氏がここでいう「ちょっと怖い」「シャレにもならない」も(1-3)のどれかは当人しか分からない。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090502/p5
爆笑問題太田光が告白、「僕もイスラム教をしゃべる(ネタにする)のは怖い」


追記’
から、孫引きの形でhttp://d.hatena.ne.jp/boxman/20080210 を再度見てみますけど、このあと発生した「靖国」問題を踏まえると

・・・事件の初期段階、国内の民族差別的風潮を助長するような表現への謝罪を求めたデンマーク国内のムスリムに対し、一貫して謝罪を拒否し「これは表現の自由を検証するテストだ」という主張だけを続けたユランズ・ポステン紙の態度はどう考えても妙である。これでは要求に対する返答にまったくなっていない。

というのに対しては、紹介された部分を見る限りでは「いやあ、ユランズ・ポステン紙の内的な論理に従えば、妙な態度ではないんじゃ?」「要求への返答にはなっているんじゃ?」と感じましたし、これと同様なかたちで「李監督の態度はどう考えても妙だ」といった論法も組み立てられる気もします。


それとは別に、ここで関連されている
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080520/p1
は面白いです。
実はこれに関係したような事例も、ブログをはじめてからいくつか収集して記録している。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20061119#p4
■欧州の反イスラム(右翼)運動に地殻変動・・・「僕らは寛容だ、だから非寛容のイスラムは敵だ」
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20041015#p1
■「そんなことは神が許さぬ!」「ならば神とも闘うまで!」


最近ではアメリカの州レベルぐらいのミスコンで「あなたは同性婚をどう思いますか?」「わたしは結婚とは男女間でのみあり得ると思います」「そういう考えの人はミスコン女王にふさわしくないですね」→落選。というのがありましたね。