数日前、メルマガ「流行神」が届いた。今回は正直、自分の興味の範囲とあまり被らないのでありますが、今回216号-217号にわたって東浩紀氏に関する文章が載っていた。
題して
「サブカル論の進め方についての疑問」。
有名な福田恆存論文のパロディだな。
私、今気づいたんだが東氏の名前、なんかあちこちで間接的に耳にするのだが彼の発言を直接聞いたことないし、著作も読んだこと無い。これは私の無知と怠慢のゆえだ。
今回の批判もある意味間接に聞く批判だな。だから予備知識がない以上、ほんとはどーでもいいんだけど、この前、そうだ「思想地図」の話だったか、あの時に「東浩紀」のキーワードで来た人がたっくさんいたから味をしめた(笑)。他の論者の名前もその記事では書いていたが、彼の名前からの来訪者がダントツで多かったよ。
で、以下は小生の独断選択による要約引用。
・雑誌「SIGHT」の2007年秋号にある「東浩紀ジャーナル」第6回で、東氏はこんな話をしている。「宇野寛幸(※原文ママ)氏のSFマガジン連載評論『ゼロ年代の想像力』は非常に質が高い。だが言及対象の漫画やアニメ、社会現象が国内的なものなので、翻訳して英語圏に紹介できない。これは2ちゃんねる、萌えマンガ、秋葉原などが題材のため北田暁大、伊藤剛、森川嘉一郎らが評論の質は高くても海外に輸出できないのと同様。残念だ」
「新世代の論客は著作を外国語に翻訳しなければいけない。そうしないと本物にはならない」
・だが、日本でエドモンド・ウィルソンやロラン・バルト、ベンヤミンの評論が紹介された時にその対象が日本で知られていただろうか。むしろ評論のせいで対象が興味をもたれたのではないか。
・2008年冬号の評論も、宇野氏の評論が質が高いことを評価し
「SF賞に落選した評論が文芸誌の賞を受けたのはある意味深刻なスキャンダル」としている。しかし褒めたように見えて、伝統文芸論壇>SFということを前提としてないか。
逆を彼は考えない。すなわち
「SFやサブカル論壇の質は伝統派をしのいだ、日本文学=ラノベやゲームであり、伝統的論壇など無視していい」
・東氏の、日本の言説と海外(欧米)の言説への態度はこれと同じで、欧米の言説など追っかけず、独立独歩でいこうぜ、とはなぜか考えない。
・東氏は日本のオタクとネットの関係性の特殊さが、普遍的な問題意識を生み出す可能性を語る。しかし、言語の壁を越えて摂取せねばならぬ必要性が認められれば、どこの国だって翻訳して読みたがる。
東浩紀氏は、日本語のマイナーさや扱われた話題のローカリティを嘆く前に、ここに示された知恵を知るとあなたのお国でお悩みのあの問題の解決に役立ちますよといった「効用」がいったい説けるのかを考えるべきだろう。そんなものがあればの話だけど。
これで116号の最初の批判部分は終わり。その後話題が変わり、
中島梓「文学の輪郭」を皮肉った1977年の匿名コラムを紹介する。(217号)
【文芸評論で新人賞を獲る方法】
1・選考委員の作品を褒める
2・選考委員が絶賛した作品も褒める。
3・その上で、選考委員のおじいさんたちが知らない最新の流行を評論する。
東氏の評論もこれに近いと浅羽氏はいう。
しかし、これはたやすく、新しい論者に同じ手法で攻め込まれる。
まあ218号の要約はいいや。これを展開させていったものだと思ってください。
元の文章を読んでみないとダメだな。
これが今までずっと言われていた批判なのか、あまり他に例が無いのかも分からない。
宇野という方の名前は、ほんとに初めて知った。