INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

アイデアと「手」

上の「ハッスル」アングル論にもちょっと関係してるので続けます。
昨日付のブログで「裁判の判例では『アイデア』の借用は盗作とはみなされない」という話を紹介したけど、まあそうでしょうね。よく冗談でスタン・ハンセンが「レスラーのラリアット一発につき、1セントでもロイヤリティが入っていれば私は大金持ちだよ」と言っていた?のを思い出すわ。
また、「ライオンキング」がジャングル大帝に似てる似てないの話のとき、とり・みきが「これが類似作品が一作だから『盗作』といわれるが5作6作と続出すれば『ジャングル大帝もの』という”ジャンル”になる」と書いていた(笑)。
そういえば、俺も”ブラックジャックもの”とか呼んでるものな。タイムマシンも、ウエルズがすべてアイデア独占権を主張していたら、タイムマシンものというジャンルは無かったわけだし。


で、「アイデア」は作品そのものとは別だという感覚ができると、いろんな創作を、全体ではなくひとつひとつの場面に分解して見ちゃうようになるんだよな。


「老師匠が、弟子に最後の奥義を伝える場面」
「かつてのライバルが、自陣営に加わってくれる場面」
「臆病なコメディ・リリーフが、密かな勇気を発揮する場面」
「敵役の強さを、表現する場面」


などなどで、ああ、これはアイデア自体が新機軸だなとか使い古されたネタやんけ、とか、古いアイデアだが描写が緻密だなーとか。
武熊健太郎相原コージの「サルまん」で、よく何度も繰り返された少女漫画のネタ
(ちこくだと主人公がトーストを咥えて走るとか、不良の恋人役が雨の中で子犬を拾うとか)を皮肉を込めて紹介するのも、ようはこの「アイデア」の提示。
それがあまりにも効果的?ゆえに使われすぎて擦り切れただけのことである。


小林信彦氏の映画評は、この種の分解・解説が異様に上手い。
あんまり上手すぎるので、映画そのものより大抵面白い(笑)。彼は、この種のアイデアを「手」と呼んで、特にアクション映画の「手」は、少し視点を変えるだけで喜劇のギャグにそのまま使えると指摘した。

それを、自分の作品で完璧に証明したのが島本和彦氏。あれは本人も本気で描いてるのかギャグなのか。




「アイデア」一発でハリウッドに受け入れられた人も
おりまして、それがかのビリー・ワイルダー氏。


http://tmworx.exblog.jp/1261092/

エルンスト・ルビッチ監督が「青髭八人目の妻」(1938)を準備中に、当時脚本家だったビリー・ワイルダーに男女の出会いの面白いシチュエーションを求めました。するとワイルダーは、パジャマの上だけを買おうとする男とパジャマの下だけを求める女を引き合わせる、と答えました。
ルビッチは一言、「完璧だ」・・・・

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1975/subcorum4.html

http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/wilder.htm

ルビッチが不満だった前の脚本は、買い物袋を抱えた男女二人がぶつかるという凡庸極まりないものだったと聞いたことがある・・・ん?1930年代に「男女が街角でぶつかるのが出会い」は既に凡庸だったのか?