昨日
■今後予定の、中学での武道必修化(特に柔道)が危険、という話について
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20101217#p4
で紹介した
■来年度から始まる中学の武道必修化の危険性について
http://togetter.com/li/79702
は幅広く注目され、19日午前4時半現在で4800ものビューがある。
私、これに関してもちっと追加したいのでエントリを立てます。
高校部活動におけるラグビー事故率の多さを放置できるか
「柔道の危険性論争」はそもそも、この研究結果によって始まったのである。
学校リスク研究所 「特集 柔道事故」
http://www.geocities.jp/rischool_blind/sports.html
そしてこの研究で、中学の部活動で柔道の死亡事故はダントツに多かったと。
だが、この研究では高校の部活も紹介している。
高校の各部活動に関して,その死亡確率(生徒10万人あたりの死亡生徒数)は,柔道が3.087人,ラグビーが3.616人で,この2種目が圧倒的に高い。
…論争の前提として、「部活動はいくら判断力が未熟な未成年といえど”自分の意思””覚悟の上”で入ったはず。無理やりやらされる授業、それも全国一律の必修化とは違う」という議論がある。
ただ、それをちょっと置いといて自分の経験だが、うちは高校の授業でラグビーをやらされたよ??別に嫌でもなく、普通に半分楽しんで、半分かったるがりながらやっていて、運良く五体満足で卒業できたのだが、あれが学校ごとにやる、やらないを決められたのかな。
「やらない」ことでリスクはゼロになる。じゃあそうする?
なんで中学部活動でラグビー事故は問題にならないかというと、そもそも中学のラグビー部があまり無いからだ、ということに尽きよう(笑)
ほんと、見出しに取るように、やらないのが一番のリスク回避。
研究結果を見ると、柔道やラグビーについで剣道、野球、陸上競技、ソフトボールなどがあるが、これらも覚悟の上?の部活動ならともかく、全員一律に、いやいやながらでもやらされる体育の必修項目に入れていいのかという議論は起きてもおかしくない。
ひとりの命は地球より重いっ。統計上比較して多いとか少ないとかで済むかっ。あんなカテエボールを投げたり、凶暴な棒(バット)で殴ったりを放置していいのかっ。ゼエゼエと脈拍を上げる、そもそも競技発祥の際も創始者がそれで殉職した「マラソン」などさせていいのかっ。
水泳もおぼれる子や心臓麻痺の子はあとを絶たん(と思う)。
跳び箱や鉄棒もリスク高っ。
しかし、そーも言ってられない。
野球にしろ水泳にしろ、そして今後の柔道など武道に関しても、うちの高校で言えばラグビーにしろ
「スキとか嫌いとか関係なく、社会に出て有用な知識、常識、紳士淑女のたしなみとしてこれを体験しておきなさい。命令です。リスクも承知の上」ということなんでしょう。そも体育の時間というのは。
そして水泳とかが典型なんだろうけど「水泳を強制的にすべての子供に授業で教えれば、年間200人の死者が出るでしょう。しかしそうやって水に強制的に慣れさせれば、それで1万人の子供が救われる」という・・・この数字はデタラメですが、全体的な視点の非情というか、そういう議論も成り立つ。
紹介したtogetterの中に
「自分は柔道で受身を習っていたから怪我をしないで済んだ、という経験を何度もした」
という体験談が出てくる。確かにキムラロックや三角絞めとは別に(※というかたぶん中学では習いません)、受身をすべての子供がまがりなりにもかじったら、どこかで生きてくる可能性は確かに皆無ではない。もっと小さな、例えば就学前児童に関して「最初にやらせるスポーツは柔道やちびっ子レスリングが最適。受け身を覚えるからその後何にでも役に立つ」という意見はスポーツライターの方が語っていたこともある。
こういう議論が出てくるから難しい。
というか「義務教育では何を教え、何を教えるべきでないか」は一種の”神学”。正統性はいくらでも疑えるし、突き詰めりゃ結論も出ない。
これは自分も、本気で自画自賛させてもらうけど、これにぴったりのエントリを過去に書いていましたよ。是非とも、今回の議論に脳内に絡めながら読んでほしい。
■我々には「銃という教養」が欠如している。それはいいことか悪いことか。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090130#p4
(略)・・・「ダイ・ハード」で…(略)ウィリスが
「銃は扱えるのか?」
「サバイバルゲームぐらいは」
「それで十分だ、頼む」
と銃を渡す場面があるのですね。わたしを含め、何人のジャパニーズが、ウィリスに助太刀を頼まれて、銃を持てるか。
…(略)「銃の扱い方」が客観的に見て、また日本という制限を仮に外して、君やわたし、また息子や娘が海外で暮らすというときに…それがかなり普遍的に役立つということなら、「銃の扱い方」は例えば学校で教える、べきものであるかもしれないわけですよ。
(略)
「つまり、世の中の人々、とくに子供が『必須で身につけるべき教養』というのは、いくらでも変わるもので、なかなか正解ってないもんだね」……という話なんですよ。
大前研一ちゅう、その世界では広範な読者を持つ経済評論家・アナリストがいるが、このシトは教育に関してもきわめて実務的で「中学や高校生になったら、余計な授業を削ってでも『自動車運転免許』や『連帯保証人の持つ意味』『クレジットカードの賢い使い方』などを公教育で教えるべきだ」という意見を持っている。たぶんこの本
あ、これは最初に大前って固有名詞を書いたのが間違いだったかな。
例えば世の中を右と左、保守と革新(リベラル)に分けるとしたら、どっちに親和性がある話かな?あんがい左こそ「社会に出て役立つ知識こそが本当の知恵、教育で・・・」となるかもしれないし、右こそ「
四書五経とはまぁ言わんが、学校は小手先でなく精神を磨くものじゃ。古典にこそ学べ」と言いそうな気がする。
どこかの金融機関だっけか?「子供のうちから賢いお金の運用を覚えましょう」と投機の仕組みや金融の仕組みを一般教養的に子供向け
セミナーでやったら、一部からブーイングが出たことも。
■夏休み親子で「お金」を学ぶ
http://allabout.co.jp/finance/gc/11770/2/
この
大前研一の「連帯保証人の意味を教えるのこそ教育」論は、実際に採用するのはともかく(いや、してもいい気も確かにするが)柔
道教育も含めた教育論を議論するときの、格好の”補助線”として役立つと思う。
つまりこの本が教科書?
もうひとつ、「何をもって教養とするか神学」の一例(?)を挙げておきましょうかね。
実際のとこ、コンセンサスが得られるのはせいぜい「読み書きそろばん」であって、そこからだと日本史、世界史、微分積分やサインコサイン、書道に音楽に美術、はては英会話教育にいたるまで「これは学校で教えるべきだ」「学校で教えることではない。実社会で役立たない」という議論は尽きない。
銃教育(武器教育)の余談
お隣韓国、台湾ではいいか悪いかは別にして、成人男子は義務として銃や手榴弾の扱いを学ばされる。普通の若者が徴兵され、訓練に臨む体験を描いた漫画「軍バリ!」(宮台真司門下の留学生が、原作を描いて日本の雑誌に連載された異色漫画)によると
「銃の取り扱い、手榴弾の取り扱いに関する教育課程では、公式に教官が暴力によって制裁してもいいと認められている」
そうだ。つまり、当然ながらあまりにも危険で、リスクが高いために「教官は殴ってでも指導し、安全な扱いを体にしみ込ませろ」ということらしい。体罰が有効だという認識も込みなわけだが。
これはふたりの柔道論客に聞くべきだな。
増田俊也と、マツリューこと松原隆一郎の両氏。今月はそういえばゴン格「力道山vs木村政彦」の大特集だって。
増田氏はtwitterがあるから聞いてみよう。松原氏は、新年度まであと4回発行されるのだから「教えて、教授!!」のテーマで「柔道事故と安全性および、その教育導入に対する得失」について論じてほしい・・・というか編集部が尋ねてほしい。
文化における「教養の違い」が良く分かる「乙嫁語り」のエピソード
19世紀末だか20世紀初頭ぐらいの、中央アジア遊牧民族の新婚さんを描くという、ニッチ産業すぎてへんな普遍性を持つマンガ(笑)・・・、森薫「乙嫁語り」は「このマンガがすごい!2011」でも6位に食い込みましたね。
http://yaplog.jp/eik00000/archive/17
この人の作品は前作も含めて、本気で好きな仕事を超えた趣味性による緻密な描写、そしてそれを裏付けるであろう膨大な資料がある判明。ことに登場人物の行動様式、意識(メンタリティ)に関しては大胆な「借景」をいとわず、共感できるような近代的な造型もしていて・・・と、作品論に逸れちゃいかんな。
この作品中のエピソードで、嫁入りした若奥様が「主人に素敵な服を作ってあげたい」「おいしいものを食べさせたい」という一心で……
嫁入り道具の弓と矢を持って狐や鳥を仕留めて帰宅する、というエピソードがある(笑)。その時代でも、夫の一族にとってはいささか古い慣習だったらしく、嫁入りしたばかりの若奥様の弓の腕前(と発想)に口あんぐりなのだが、その後一族の長老格であるお婆さんが・・・おっと余談。
「嫁入り道具」「花嫁修業」という「教養、教育」も時代や地域が変わればこんなに違うという面白いくだりでした。もちろん、狩や弓、そして乗馬が
遊牧民族の必須教養だったら、それを学ぶ過程での怪我や死亡事故の多さも容易に想像がつく。同時にそれを習得できないまま育つことのリスクも想像がつく。
「自然の中でわんぱくに、のびのび遊ぶ」肯定論とか「公園遊具を危険だといって撤去することを憂える」論も視野に
こういう議論もよく耳にしていて、なんだっけ遠心力で遊ぶ丸い鉄かごみたいな遊具も無くなっていっているけど、「そういう遊びで危険を知りながら子供たちは学んでいくんだ」的な教育論ってけっこうありましたよね。
これも一種のリスク・ベネフィット論で。
そもそも昔は、体育の授業や部活で深刻に怪我しても「まぁしょうがない」で済ませる”暗数”が無かったか?
性犯罪被害の各国統計を比較するときよく話題になる、「それを公にすることに社会的、伝統的なためらいやプレッシャーがあるため公にならない」数、つまり暗数。
なんの統計的根拠も証拠もないままでいうけど、「ずっと昔…、まだ学校や教師に地域や保護者が強い尊敬を抱いていたとき、体育や部活で深刻な怪我などをしても『先生は熱心に指導してくださったんだから』『うちのバカ息子がご迷惑をおかけしまして。はい、この件はもちろん内密に』というようなことがあったんじゃないか」という仮説。言いっぱなしだとデマに近いかもしれないが、まあ「クレーマー」だか「モンスターペアレント」と(行政側から)いわれる人の増加からの類推。