INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

矢沢永吉の失敗。それでもなお・・・

終わってみて「矢沢登場の場面でDynamite!は視聴率が急落、全体の足を引っ張った」と言われたら、私どものような格闘ファンから見れば「さもありなん」と後知恵で思うけれども、今回はPRIDE-1の藤谷美和子と違って(古い!)視聴率・TVのプロが満を持して、高い金を払って投入したわけで、まったく彼らも読みきれなかったのでしょう。


そもそも、われわれにとって、あなたにとって、YAZAWAは本当にスペシャルな存在でしょうか?正直、自分はたしか参戦の話を聞いた時も「自分にとってはぜんぜんピンとこないが『熱狂的なファンがいることは知っている』」という存在でした。


たとえば、故ナンシー関に「信仰の現場」という作品がある(続く)



【補足】(続く)を書く前に補足ってのも恐縮だが
コメント欄と連動し、http://8611.teacup.com/s_tropical/bbs で視聴率と人気の微妙な関係(および無関係性)について論じられています。(1/10から)

朝日新聞論説委員「恵村順一郎」とは誰か?

昨日付のブログで、合わせて30件近くこの名での検索、来訪があった。
何事ならんと思って調べてみると、小泉純一郎の新年会見で産経・朝日が正反対の社説を書いた後、今度は産経新聞の朝刊コラム「産経抄」←→朝日新聞の夕刊コラム「窓」のやりとりがあったゆえで、窓の執筆者が恵村氏だったということだ。
やり取りの主題は「ほとんどの新聞」とはどこからか?という点で、これはナベツネ読売を”共闘”に引き入れた朝日にブがあると思う。


それはさておき、恵村氏については当ブログも一回だけ、2005年の論座9月号を紹介したときに触れただけだ。「靖国参拝反対論を書いているが凡庸だ」と批判している(笑)。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050902

それをもう少し詳しく。

たとえば、彼の論文の論理展開能力が弱いなあと感じる部分は、戦犯への軍事恩給が復活したことをどう評価するかで「こうした(恩給復活は戦犯が戦死と同様だという)主張は、戦没者遺族の困窮を救うという福祉上の問題を、A級戦犯が犯罪者ではないという全く別の問題にすり替えている」と書いている(p51)。
が、「法務死」というカテゴリーを組んで、軍人恩給の枠組みの中で支給されていること自体が、国家というフレームの中での法的な扱いとしては、実は靖国という「霊の世界」で神となっているか怨霊なのか(笑)より100万倍重要な話であって、これはちょっと弱いなあと当時読んでいても思ったものだ。引用される大原康男氏の『当時の立法府が戦争裁判による志望者を一般戦没者と同じように公務上の死亡者とみなし・・・国内法上の犯罪と同視しなかった』のほうが緻密に聞こえる。


また、昭和天皇が参拝をやめたのが「A級戦犯の合祀に理由がある」という説に、岡崎久彦氏が三木武夫首相が1975年に「私的参拝」を強調したためだったという反論をしている。
恵村氏はそれに再反論し、「それならなぜ、その3カ月後に天皇は最後の参拝をしたのか。全く筋が通らない」(p52)としているが、これも説得力は感じないなぁ。
天皇の公務、出席行事はかなり前から緻密に計画が決まっているもので、3カ月じゃあ修正は効きにくいだろう。三木参拝の後はスケジュール通りに行ったが、この三木の見解で、今まで問題視されなかった天皇参拝の「公私(政教分離)」も問題視、じゃあその後はやめようか・・・も理屈は通る。
ちなみにA級戦犯合祀は昭和天皇最後の参拝後3年が経過した、1978年。


この夏は賛否合わせて靖国神社論は多数出ていて、多くに目を通したつもりだが、恵村論文は大した視点や切り口はなかったよ・・・と検索来訪者のために、この時期に再論しておく。


ちなみに彼の略歴を転載しておくと
「1961年、大阪府生まれ。京都大学法学部卒。
朝日新聞社会部、政治部、アエラ編集部などをへて、
205年4月から現職(論説委員)」とある。

新兵だったか。張り切ってるなあ。

唐沢俊一日記より

日本オタク大賞」05年の開催が決定したからというわけではないが、昨日の岡田斗司夫に続き、更新されたばかりの唐沢日記を紹介。
エピソード、知識、教訓が渾然一体となった小味なコラムだったからだ。なんとなく、中学高校の教科書に載せてもいいような感の。


http://www.tobunken.com/diary/diary.html

感動的(私にとっての)エピソードがあった。
昨日の新人二人、今日も現場で一生懸命やっていたが、江原さんが現場入りした時点で、二人とも自分がいまかかっている作業に一生懸命で挨拶をつい、していなかった。すぐ、T浦さんの注意が入る。
「おい、おまえらなんで江原さんに挨拶せんのや!」
と、まあ、これも普通の語調よりちょっと強い程度の叱責なのだが、それに続く言葉に膝を叩いた。
「挨拶ちゅうのはな、“自分がここにいてスタンバっとる”ちゅうサインなんやで。指示出す人間に自分の存在を認識してもらわんと、向こうが用を言いつけることも出来へんやろ。せっかく現場に入っていることが無駄になってしまうんや。能率が悪いやないか」
先輩に対する礼儀だの上下の格式だのといった精神的問題ではなく、“仕事上の能率を上げる”現実的手続きとして挨拶は必要。これは目からウロコの指摘であった。
そう、ここ(撮影現場)では、全てが“作業の能率を上げる”ことを最優先に機能している。
昨日のクランク・イン前にTさんから俳優さんたちにあった指示。
「我慢をしないでください」
かつらが痛い、トイレに行きたい、無理な姿勢での演技を強いられている、これら全てに対し、
「我慢して頑張られて怪我をされたり倒れられたりしてはこちら(スタッフ)が困ります」
無理な頑張りは決してグループ作業においては褒められたことではない。さらに言えば撮影現場では“走らない”がディフォルトになっている。着慣れない時代物衣装を着て暗いスタジオ内で走られて、転んで怪我は言うまでもなく衣装を汚しでもされたら、それだけで大きなロスになってしまう。
オタク二枚目俳優で知られるKがロケ先でいいとこを見せようと張り切り過ぎて、落ちなくていい水に落ち、衣装を洗濯して乾かすまで、その日の撮影がパーになったエピソードなどを聞かされる。全ては能率、に通じるのだ。