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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 報道、記録、文化のために

国旗の扱い、ハチ公、ムッソリーニ、2・26事件……リアルな「戦前の実感」描く山本七平遺作『昭和東京ものがたり』が猛烈に面白い

連載は1988年から1989年末まで、今はない「週刊読売」。
山本七平氏は1991年没で、晩年は癌との闘病が待っていた。「世間が湾岸戦争(1990~1991年初頭)のころ、私は膵がん戦争だった」という冗談を言うぐらいなので、ほぼ遺作と言っていい。
当時、リアルタイムで読んでいたな。掲載の週刊読売、正直全体としての雑誌が低レベルだったが、まだまだ「雑誌の時代」であって、何でも読んでたのだ。

この回想コラムは当時から面白かったが、そこから30年以上経て、このレベルの回想をできる人は、物理的に皆無に近い状態になった。SNS上でも、内海桂子師匠が226事件の思い出を「当時の体験」として書き込んで、話題になったのは何年前かな。

山本氏は1921年生まれ、- 東京府荏原郡三軒茶屋(現在の東京都世田谷区三軒茶屋)に住んでいた。
両親がクリスチャンというからその時点で非常にめずらしい存在(名前は「七平」だが長男。「七番目の日、安息日の日曜に生まれたから七平だって)だが、
「典型的な中産階級」として、暮らした。
だが、驚くほど明晰な記憶力があって、実に詳しく日常の細部を覚えている。

だからめちゃくちゃ貴重な記録であり、特に当方がリアルタイムで読んだ時と比べるとこちらに歴史の知識が蓄積された故に、本当に面白くてたまらない。


たとえば、ひとことその貴重さを例に挙げるが、著者は「生きているハチ公」を渋谷駅前で見ているのだ。
……なんだそれ…って、1980年代末なら、まあギリギリそれを文字にできる人もいたよね、という話。ただ年齢はともかく、当時、東京の西にいて、その見た経験を活字にして発表できる人となれば限られるでしょ?
いかに貴重な本か、である。




いま入手や閲覧をするのはそれほど簡単でもないが、不可能でもない。
読むことができたので、内容をメモしておきたい。

ただ、本当に紹介したいことが膨大なのであn。

目次を転載しておこう。このタイトルだけで興味深いものがあるはずだ。

1 関東大震災のこと
2 ライオンになった東京
3 天井裏の探検
4 腹掛けのドンブリ
5 屑屋のゴム靴
6 おわい屋さん
7 木登り
8 定斎屋と羅宇屋
9 下駄のはなし
10 ちんどん屋のことなど
11 軍人は半人前
12 初めての地下鉄
13 夢の中の白いキツネ
14 社会的な礼儀作法
15 大内山
16 一銭蒸気と団平船
17 夜店
18 玉川の鮎
19 父と灸
20 行き倒れ
21 食べ残し
22 退役軍人の体面
23 結核の恐怖
24 検査前
25 雲上人
26 表と裏
27 「取られる」「逃れる」
28 お昼のドン
29 流行歌
30 オリンピック
31 カルチャーショック
32 すきやきと鯨
33 郷土食
34 好き嫌い
35 夏の風景
36 漁村の日常
37 タコのおじさん
38 スガワラ君
39 生アジのお茶漬け
40 漁師に背広
41 無縁の世界
42 ハイヒール
43 師の権威
44 道草
45 教育と時局
46 教育勅語


御大喪をめぐる大衆心理の変化
リンドバーグツェッペリン
エントツ男
農林一号と軍需景気
越境進撃
渡り職人と無尽
疑獄と一人一殺
満州浪人
共産党大検挙
難波大助
軍縮時代
山と空に憧れた友
それぞれの憧れ
東京という街
下請と内職
国旗と公徳心
いけない質問
司法ファッショ
配属将校と教練教師
ミルク・ホールの客たち
××および削除部分の謄写印刷
少年の関心
文章とは難解なもの
戦後の「先がけ」
東郷平八郎元帥の国葬
万世一系万邦無比
庶民の嗅覚
人焉んぞ痩さんや
「オイチニ、オイチニ」
コクタイメイチョウ
モダン兵舎
ソーシャルダンピング
社会主義”的で“民主”的な陸軍
相沢事件
東京音頭
自動車草創期
二・二六事体と民衆
奇妙な数日間
「騒擾」から「反乱」へ
「兵に告ぐ」
帰順の真相
一時の軍縮

本当に二、三行ぐらいで。

関東大震災は本人は知らないが、家族の共通体験として両親や姉から聞いたという。連帯広場地震からしばらく月は真っ赤。地震発生からわずか4時間で「朝鮮人暴動」のデマが発生し東部13部隊連隊広場に避難。父は銀座から世田谷まで徒歩で帰宅。親戚の山田吉彦が自警団か警察かに捕らえられて「俺は日本人だ」と必死で弁明し、父親が見受けと身分保障に行った。この山田吉彦はのちに「気違い部落周遊紀行」をかいたきだ・みのるである。



・きだ・みのる氏と共に山本七平の親戚には当時知られた戯曲家の永田衝吉、通称コー兄さんという人がいた(ただ文学的一族かというと、山本の家はまったくそうではなく、そういう世界で食ってる親族を心配してる堅気、みたいな感じだそうで)。
この人は元内務官僚だったのだが、仕事として「芝居の検閲」をやらされた。戯曲家になるほど文学に精通してる彼は、検閲席で芝居を見るのだけど、全く文学的な意味で「ウーン、ここはちょっと問題だな」とつぶやくと、たちまち周囲の警官が楽屋に飛んでいき『今の台詞はナンジャっ』と怒鳴りつける。それに嫌気がさして辞職するという、おもいっきり「笑の大学」そのまんまな話が(笑)。しかし七平の父はそんな文学的な苦しみを理解せず「堅い仕事にせっかく勉強して就いたのに辛抱がたらん」。



関東大震災からの復興をみた山本父は「東京はみんなライオンになったな…」と。これは正面から見るとライオンのたてがみのように立派だが、裏に回ると尻すぼみの建物、という意味で貧弱に感じたのだそうだ。



・当時の家は風通しがよく(というか気密性なんて一つも考えてない)、天井裏にも子供が登れた。探検ができた(江戸川乱歩の有名な短編もあるが、むしろ自分はこち亀での「部長宅の天井裏に潜む」を思い出す)



・昭和6年の中産階級は4、5人の子供と女中ひとり。あと、一日おきに「洗濯ばあや」がやってきた。買い物はというと、あまり出かけず「ドンブリ(前ポケット)つきの前掛け」をかけた「御用聞き」が午前に注文を聞き午後配達する。冷蔵庫もない時代だからその日に買ってその日に料理。豆腐屋と納豆屋は朝に天秤棒で売りに来て、ラッパや「ナット―」の売り声は一般的。豆腐は器を持ってきて、測り切りをして入れてもらう(「サザエさん」で、こういう風景がかろうじて追体験できるよね。よく考えたら長谷川町子もクリスチャンで、九州から戦前の昭和東京に行き、中産階級の生活をしてた。接点があってもおかしくないかも)・屑屋、朝鮮飴屋なども売りに来た。



・おわい屋と言われる、汲み取り便所から便をくみ取って回る業者もいた。運搬は牛車。この時代は、ちょうどそういう業者やお百姓が「肥を取らせていただきます」と野菜を持って礼に来る時代から「汲み取り券」を家庭が買って…つまり金を払って汲み取りをしてもらう、ちょうど転換期だったのだという(こんななことを書き残しているから貴重)。だけど当時は「人造肥料」と呼ばれた化学肥料もまさに当時普及が始まった。のちに軍隊で農家出身の部下から「一度化学肥料を使ったら、二度と下肥えにゃ戻れませんよ」と…
「少尉殿、そりゃどうしてもそうなります。一方は思い肥桶をかついて柄杓でまかにゃならん。一方は白い粉をばらばらっとまくだけですから」

ここで中断して記す。
しみじみこの本を読んで思うのは、「本当に時代は、この時代から良くなったなあ」ということである。


それはいくつも理由があって
・いくつかは敗戦と民主主義を経たからでもあるし、
・いくつかはその戦後が否定した戦前の「大日本帝国」が、江戸幕藩体制を脱却し、帝国主義の中でなんとか「カチグミ」に滑り込んだからであり
・いくつかは単純に科学と技術が進歩蓄積されたからでもある。


どれがなくても、時代と生活は便利にならなかったし、また今この本を読んで「ふーん、昔と比べて今はなんて便利で快適なんだろう。昔にはとても戻れんね」と皆が持つであろう感慨を、当時の戦前昭和人も濃厚に持っていたのである。
二二六事件の1936年はほぼ90年前。そこから90年さかのぼれば、1866年って、大政奉還前だものねえ…


上の、「化学肥料を一度使い始めたら、下肥にはもう二度と戻れない」と、それを使い始めた当時の農家自身が思っていた、という話はオーガニックだへちまだという話をふっとばす圧倒的な実感を感じる。


つづき


・当時はブリキ屋、傘屋、トタン屋、鋳掛屋…といった商売があり、一軒一軒訪問して、直す作業をやっていた。当時は鍋がアルミ、流し台、洗面場、風呂場の煙突などにブリキはすでに普及していた。アルミの鍋には穴ができ、そこにアルミのリベットを打ち込んで穴をふさいだりする。ブリキはボロボロになりがちなので張替えを専門家が行う。(これも「サザエさん」などに出てくる描写だったな。アルミ鍋の小さい穴をリベットでふさぐなんて実際にやらないだろう、いま)。



・「定斎屋」(著者は当然のように説明を省いている(笑)が、どうも錠剤を引き出しつきの箱に入れて売ってたようだ)下駄の歯入れ屋、らお屋(キセルの筒を取り換える商売)、金魚売り、荒物売りの行商…なども著者は実際に見た。戦前は「往来を行商する人々」がまだいた時代。今は、消えた。



・「野犬狩り」も普通にいた。狂犬病も蔓延していたから重要な仕事なのだが「犬殺し」という嫌で差別的なニュアンスの言葉も普通に言われた。子供たちは犬の味方だったが、針金の環を首にかけてキャンキャン鳴く犬を津得ていく。街にはほかに「虚無僧」、オバサン、一曲歌わせてえ、と勝手に民謡の一節をうたって小銭をせびる物乞い(今もアジアにいるように、大人がそれをかすめ取る)。子供は人さらいされて曲馬団に売られる、という言い方も普通にされてた。ちなみに昭和8年に「サーカスの歌」という映画が流行り曲馬団⇒サーカスに。



・映画館(活動写真)は軍人半額があった。著者がなぜ軍人が半額なの、と聞くと父は「軍人か。ありゃ半人前だからだ」


・昭和ひとけた時代、実は軍人の肩身は相当に狭かった。昭和2年の時事新報社説は「日本は世界に先駆けて軍縮と平和を主導せよ」だったのだ。あるTVディレクター(たぶん吉田直哉氏)は「終戦は自分たちに大ショックだったが、大正生まれは『これで昭和の初めに戻る』と言ってた」。


・そんな父親は「堅気らしく身を律す」という人で、何より嫌いなのが借金。著者にも借金は絶対するな、と厳命した。その時の台詞「人間は昼しか働けないが、利息は夜も追っかけてくる」


・当時「堅気」は、無尽を競り落として(意味わからんだそうがそういうのがあったの!)工場を始める職人とかもいた。一方で宵越しの銭をもたず、ばくちで身ぐるみはがされて、その日仕事を貰ってまた暮らす、そんな破天荒ながら腕のいい渡り職人もいた。


・当時と今の違いは、階級によって着る服が違うこと。たとえば職人は、どんなに収入があっても中産階級のような背広とかは着なかった。ちなみに昭和初期はすでに着物は家でくつろぐもの、洋服は仕事で着るもの、と中産階級ではなっていた。


・軍人も宇垣軍縮で、佐官級の人間が首を切られる時代だった。その結果、退役高級軍人が軍服を身にまとって家々を訪問、「徴兵保険(そんなものがあったのだ)」をさも公的制度のように売りつけようとしていた(そんな軍人を実際に見た)。※超貴重な証言


・兵隊には普通に「取られる」。「うまく徴兵を逃れた」「徴兵逃れで大学へ行った」が一般的に言われた。一方でどこの兵営、駐屯地にもボランティア的に休日の兵隊を世話したり、家を開放してくれる「兵隊おばさん」がいた。遠方で休日帰省できない兵隊の親代わりだった。


・初めての地下鉄、という話もあり、鉄道オタクとかは楽しめるだろうが(笑)割愛…ここに出てくるお出かけや風景、乗り物体験をまとめとくか。、一銭蒸気船、段平船、帝国ホテル、玉川(砂利取りとスラム)、最澄寺、李王家の御殿(旧大韓帝国の末裔。1980年代、まだ現存していたとか。今はどうだ?)神田藪蕎麦、避暑地は久里浜。品川海岸沿いにはカニ料理屋が並ぶ。


結核で一家離散、全滅が普通に有った時代。山本家は中産階級だが勉強を一切子供にさせず、夏はひと夏、海に避暑に出かけた。すごい金持ちとか放任主義とかでなく「結核にさえかからなければ、健康ならそれでいい」という結核防止第一主義、だったから。そういう家庭もたくさんあった。脚気も国民病。ただ、逆に言うとそのころ既に「米ぬかを食えばなおる」とは言われてたが米ぬかは食いづらい、喉を通らない…という生活水準でもあった、といえる。


・戦前の天皇行幸の光景も見た。鹵簿というそうである。先にトラックが来て市電のレールの上には砂を撒く。それは騎馬行列が滑らないようにするためらしい。そして素晴らしい技量の騎馬隊と天皇の馬車がいく。その後ろから最後にトラックがやってきて、馬糞と砂を回収する(笑)。いやだけど、本当に騎馬行列を再現するとなるとこの「馬糞処理係」は当然ながら必要だそうで。


・その行列を見て父親「(のちの昭和)天皇は明治帝に似ておられる。きちっと正面を向いておられる。大正天皇は侍従と話したり、外を眺めて笑っておられた」


・当時も皇室デマというのはあって「照宮様は唖だ」というのが相当広くささやかれていた。あと教育勅語をもじってジェスチャーで表現する遊びとか。「皇祖皇宗」の時は脇をくすぐる動作(「コーチョコチョ」)とか、冒頭の「朕」は股間を指指すとか…※ちなみに山本七平は抜群の記憶力で、軍隊時代も内部で軍人勅諭を茶化すパロディがあったことを記録し、著書に残したが「今でもこの種のことを記すと少々すさまじき抗議が来る」のだとか…。子供は、当時正午を知らせるために打つ空砲の大砲(半ドンの語源)を軍が担当してるから「天皇時報係」と変な認識も。


・一方、明治天皇はおこげをお湯でふやかしおかゆを食べたとか、子どもの昭和天皇が好き嫌いをしたら食事抜きになった、とか質素倹約の宣伝材料になったり。


・日本初の女性陸上メダリスト、人見絹枝は大人気の有名人だったが「ああいう方は男性で生まれればよかったでしょうにね…」とか言われた。五輪選手がさらに一段上の国家的英雄になるのはロス五輪から、が山本七平の肌感覚とか。当時の寄席中継落語「オリンピックって何だいって子供に聞かれたから、おりんさんがびっくりしたんだ、って答えた。じゃあムッソリーニは、と聞かれたんで、ムッツリして、偉そうにそりかえってるやつだ、と…」


ムッソリーニが出だしたころ、実は日本人はイタリアをかなり軽く見ていた。移民が送金して対外赤字を埋めてる貧乏国、と。さらにエチオピア戦争も、日本の世論はエチオピアに同情的。実は日本の伯爵家令嬢とエチオピア皇族の結婚話があり、それにイタリアが介入して破談になったらしく「ムソ公」扱いだった、と。



・マグロのトロは貧乏人がネギマで食う物。身欠きにしんや落ち鮎やクジラの脂身もただの日常食。この辺は冷凍・冷蔵技術が非常に低い時代の制約。逆に卵焼きはごちそう。紀州の海岸出の父親は明治24、25年頃に初めて牛肉を食べた。手に入ったのに祖母が「竈が汚れる」と台所を使わせてもらえず、浜辺でアワビの貝殻を熱してそこで醤油で焼いて食べた。それが実に感動するほどうまかったとか… 逆にクジラ肉は一般的だし、鱧や太刀魚も「あんなものは浜辺に捨ててた」で、更にウツボは……面白いエピソードが色々あるが略す。


・山本家は牛乳を早くから飲んでいたが、田舎から親戚の老人がやってくると「なに?牛乳で育った子??」と顔をまじまじと見て感心してたとか。/そもそも当時の冷蔵技術と交通機関では、近所にある、乳牛を一頭二頭買っているところから買うしかないわけで、そういう小さな牧場が地域に混在し…


・教師の体罰、実は昭和初期は少なかった。というのは権威がさらに強く、子どもも恐れ入ってるので体罰すら必要ない。先生に怒られたことで親から体罰、はあったが…


・山本家は毎夏、久里浜に避暑に1か月行った(避暑できるのはすごく金持ちな訳でなく、そもそも冷房のない時代、夏は余り仕事がないのが結構一般的だった、&上記したような「結核回避第一主義」だったとは本人の弁)。そこで漁村の人と数多く出会った。様々な体験記が面白いが「当時の日本社会は貧富の差、ライフスタイルの差がは激しかったが、『そもそもそういうもの』『住む世界が違うのだ』と認識し、羨望や嫉妬が少なった」と分析している。


※一巻の後半ぐらいまで抜粋して、さすがに膨大に過ぎた。これでこの本が非常に興味深い、と伝わる人には伝わったと思うので、ここで終りにしたい。
2.26事件に実際に直面した体験記は、2巻なのでそこは申し訳ないが…ただし、さらに特別に興味深い数か所は、あとで独立させて紹介したい。

だけどここだけ!!戦前「日本人は外国に比べて国旗の扱いが粗末だ」とよく言われた。言われた方の反応は……

戦前の国旗の扱い (昭和東京ものがたり 山本七平より)

「おせっかいなババアだ」。
リアルな戦前の実感にもほどがあんだろ。