古賀稔彦さんの柔道がなければYAWARA!はありえませんでした。
— 浦沢直樹_Naoki Urasawa公式情報 (@urasawa_naoki) March 24, 2021
あんなに見事な一本背負いを漫画でも表現してみたい。でもあの本物の迫力はなかなか出せませんでした。古賀さんの柔道はすごい刺激をいつも与えてくれました。本当にありがとうございました、古賀稔彦さん。謹んでご冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/uma2FU0ibE
古賀稔彦さんの訃報を受け、ともにバルセロナ五輪を戦った吉田秀彦さんがコメントを発表しました。 pic.twitter.com/WBQfNaPW6G
— テレビ東京 柔道情報 (@tvtokyo_judo) March 24, 2021
自分は古賀が活躍した80、90年代、それほど柔道の試合や五輪を見ていなかったので、実は背負い投げの姿などをほとんど見ていない。
吉田秀彦との深い縁(バルセロナでの現地の直前練習で吉田が古賀にけがをさせてしまったが「吉田に負い目や焦りを持たせたくない」という意識で奮闘しその状態で優勝、吉田もそれを受けてダブルの金となった話)は、そのずっとあとに「吉田秀彦物語」が少年サンデーで載ったので知った。
そんな状況だったから、最強=再重量の小川直也が銀メダルに終わった時に世間の目がひどかった(らしい。この雰囲気もリアルタイムで実感はしていない)。さらに、全日本柔道だと小川がこの2人と決勝で闘いいずれも勝っちゃう(吉田、古賀は階級的に決勝に行くこと自体が奇跡的な偉業で、だからこそ決勝で小川が勝つと「空気読めや…」になる)ことで、小川―吉田が大晦日総合格闘技PRIDEのメインになるほどの、のちのちの因縁につながるのだと。
よく考えたら上にあるように、古賀・吉田(そして小川直也)が活躍した時代は「YAWARA!(1986年- 1993年)」「柔道部物語(1985 - 1991年)」「帯をギュッとね!(1989-1995)」の3大名作が共演していた柔道漫画全盛時代だったのだ。 YAWARA! 完全版 コミック 全20巻完結セット (ビッグコミックススペシャル)
てかYAWARAと古賀吉田小川って、同じバルセロナに行った五輪団仲間だったわな。
そしてそもそも柔道部物語は、古賀がいなければ短期連載で終わってたらしい
・はじめに柔道をテーマにと編集部にいったときの反応は最悪。えー?柔道漫画なんて…って顔に書いてある。そもそも当時は「部活もの漫画」があまりないし、柔道人気もあまりなかった。
・人気投票でも最初の1年は人気なし。ヤングマガジンじゃなくて少年マガジンから連載の打診が来て、この続編を少年マガジンでやろうか?と言ったら「それはいらない」(笑)
・でも当時は「What's Michel?」がもう爆発的人気だったので、こっちは趣味感覚で力まずやれた。
・その途中から、「全国の柔道部員がこれを読んでいる」という反応が出てきた。読者の顔が見えてきた。
・「おはつ」の儀式は、日体大の伝統で、古賀稔彦から教えてもらった。古賀さんからはファンレターをもらったんです。
・当時は「平凡な田舎柔道部の、部活日常もの」を書くつもりだった。だが、ほぼ99%がホワッツ・マイケルへのファンレターの中で「日体大・古賀稔彦」のファンレターがあって…
・「こんなすごい人が読んでるんじゃ、これは田舎の柔道部話で終わらせてはいかん」と、王道もの=三五十五が日本最強になる話になった。
・デッサンをきちんとやるために、自分がパンツ1丁になって柔道のポーズを撮影した。それを現像に出すと、「これですか?」といって奇妙なポーズのパンツ一丁の自分の写真を見せられる。店の人はどう思ってたんだろう(笑)
・「釣り手だけの片手背負い」が出てくるが、これも古賀の技。参考にビデオで撮った古賀の映像で、早すぎてぶれているけど、何か(ふつう相手を掴んでいるはずの)左手がここにある…見直す…どうも片手で投げてる?…本人に聞いて確認し、許可を得て描いた。
m-dojo.hatenadiary.com
なぜあの時代、実際の柔道を見なかったんだろうな俺(笑)。まあ、ビデオが家に来るのが遅れたのも理由で、時間が合わなかったんだなたぶん。(当時は、放送時間に家にいないと番組って見逃すんですよ、若者よ)
さて。
本題なのだが。
「古賀稔彦」にとっての俺のイメージは、残念ながら柔道家としてではなく「GONG格闘技で大ぶろしきを広げまくったMMA評論家(当たらない)としての古賀」なのである。
古賀自身は正統派の柔道界を歩いた人間なので、そんな邪道のMMAと直接にかかわったわけじゃない。だけれども…。
つまり…PRIDEが全盛時代、満を持して2002年、Dynamite!!でデビューしてホイス・グレイシーに袖車で、レフェリーストップ勝利した(ホイスは落ちてないと主張し因縁が残った)時に前後して、「トップクラスの柔道家なら寝技も問題なく、そのへんの格闘家より強い」「ホイスの寝技レベルを見て笑っちゃった」と幻想をあおりまくり、かわいい後輩の吉田秀彦の幻想を拡大しまくったのでした。
おお、資料出てきた出てきた
戦前の予想。試合は世紀のミスジャッジだったんですけどね……【追悼】2002年の古賀稔彦氏=後輩・吉田秀彦のプロ転向とホイス・グレイシー戦について語る「レベルが違う。楽勝じゃん」(ゴング格闘技)https://t.co/0Jx0lveXCq
— ジャン斉藤 (@majan_saitou) 2021年3月24日
それは元柔道家の高阪剛も「俺は合同練習で吉田に一瞬でぶん投げられて才能の差を痛感した」とか言ってたしね。
一気に幻想は高まりましたよ、ええ。
ところが1、2年もしないうちに、吉田は判定問題でもめたホイスと再戦、いきなり直前に柔術着を脱ぐというホイスの奇襲があったものの、吉田はホイスに寝技で圧倒されてしまった(判定無しのドローだが、ホイスは勝ち誇り雰囲気ではリベンジ達成な感じになった)。そして滝本誠や中村和裕、秋山成勲、泉浩、パウエル・ナツラ、ユン・ドンシク…などの転向が相次いだ後は、「柔道家のMMAは、その後の対応の努力次第」「超一流の柔道家も、それだけで勝てるわけじゃない」という当たり前の結論に落ち着いた。
だが、あの古賀稔彦が「柔道家はその柔道の力だけでMMAの頂点に立てる」というニュアンスで煽りに煽ったことそれ自体が、上記の大量転向を促したわけだし、その後のMMAの世間への浸透に間違いなく一役買った。あの時に古賀が煽った「幻想」は、上に書いたような「正解」を言うより何倍もMMAにプラスの効果をもたらしたのだった。
そんな古賀氏が、あまりにも早い50代で逝去した。
安らかであることを祈るしかない。
「平成の三四郎」の異名を取った柔道家で、92年バルセロナ五輪男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦(こが・としひこ)さんが24日、川崎市内の自宅で亡くなった。53歳だった。関係者によると、昨春からがんで闘病中だった。美しい一本背負いを武器に五輪に3大会連続で出場し、指導者としても五輪2大会連続金メダルの谷本歩実らを育てた希代の柔道家が、道半ばでこの世を去った
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