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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「『割礼』は子供への傷害じゃないか」・・・タブーに踏み込んだ論争で、ドイツはおおさわぎ。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/120829/erp12082916070001-n1.htm

割礼めぐり大論議、宗教的習慣「傷害」か ドイツ
2012.8.29 16:06 [欧州]

 
 男児に宗教上の割礼を行うことの是非が、ドイツで大きな論議になっている。医療目的でなく性器の一部を切除するのは「傷害罪」に当たると裁判所が認定したため、割礼が宗教上の慣習のユダヤ教徒イスラム教徒が猛反発した。「ナチス以来のユダヤ人弾圧だ」との声すら上がり、政府は割礼を罰しないための新法を制定する方針を決めた。

 問題になったのは、西部ケルンの医師が2010年11月に当時4歳の男児に行った割礼。イスラム教徒の両親の依頼だったが、手術2日後に大量出血で病院に緊急搬送された。男児は回復したが、検察当局は傷害罪で医師を起訴した。

 一審は無罪。二審は今年5月の判決で、両親の意向だったため同様に無罪としたものの「子供の体の健全性は親の権利より優先される」と指摘、宗教上の割礼でも傷害罪と見なされるとの判断を・・・

8月24日付の朝日新聞には判決の要旨がちょっと載っている。
「子供が肉体的に傷つけられない権利は、両親の権利を上回る」
「こどもが後に自己決定するまで待たされても、両親の宗教の自由は侵害されない」

これに対してドイツのユダヤ人中央評議会は
「宗教共同体の自己決定権に対する前例のない侵害」
聖職者は
ホロコースト以来最大の攻撃」
と。


むかし「パブティスト」というキリスト教の一派・・・・・当時は「再洗礼派」と表記されてた・・・についての解説を読んだとき、ざっくり言うとこう書かれていた。
「何も分からない赤ん坊や幼児に洗礼をさせてキリスト教信者になるといってもそれは無効。ちゃんと自分で判断できるような年になってから、自分の意思で初めて洗礼を受けてこそクリスチャンと呼べるのです、という考え方です」
 
自分は「ああ、そりゃド正論だね。理屈にあってるね。モダンだネ」と感心しましたよ。・・・その”ド正論”に従えば、ドイツの連邦裁判所のいうこともまたもっともでね。しかし、宗教と世俗の関係は、いろいろこのブログで事例を集めていると分かったのだが、要は中世以来「王権と特権のせめぎあい、力関係」にすぎず、リクツというより力関係できまるものだ、という流れが見える(笑)。実際これで「同意可能年齢に達するまでの(宗教的)割礼禁止」となっても理屈ではおかしくないが、現在連邦議会は「権利を尊重しつつ医学的に妥当な割礼を認める法案」へ向けて進んでいる、とか。

実際に割礼を受けた子の様子を描いた漫画

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トルコで私も考えた 4 (YOUNG YOUコミックス)

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たしか四巻だったような・・・あっちにしてみると、七五三みたいな、わが子の成長をいわう節目の行事でもあるそうな。


【追記】約1カ月後、合法化が成立。
それを受けて
■「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと
http://d.hatena.ne.jp/maukiti/20121004/1349284434

「再洗礼派」と言う言葉について。ええい、ややこしい!! 〜「見なしの自由」の一例。

ウィキペディアの「アナパブテスト」
幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づくバプテスマ(成人洗礼)を認めるのがその教理的特徴の一つである。幼児洗礼者にバプテスマを授けることがあるため再洗礼派とも呼ばれる。ただし、彼らにとって幼児洗礼そのものが無効であるので再度洗礼を授けているという認識はない。従って「再洗礼派」を自教会の名称として用いることはない。また日本語で洗礼の語を使うことは無い

ウィキペディアの「パブテスト教会」
バプテスマとは一般に洗礼と呼ばれる儀式の事であるが、バプテストでは特にこの時に全身を水に沈める(全浸礼)事、又、信仰告白を行う事が重要であるとする。バプテストの各個教会では、洗礼の語を避けて浸礼 又はバプテスマと呼ぶ事が多い。
・・・自覚的な信仰告白のできない新生児や乳幼児がバプテスマを受ける事(幼児洗礼)を否定するのが特徴的である。故に、全浸礼によらない洗礼(滴礼等)をバプテスマと認めず・・・

あー、なるほど。
彼ら自身の考え方からすれば、自派に改宗したひとたちがカソリック時代とかに、幼児期にやった洗礼は洗礼にも値しないからノーカン。決して「再洗礼」ではないと。
しかし、他宗派はじめ、その他大勢から見ると、どー見ても「再洗礼」だよね、と。
これは「当事者がそう言ってるから」という<だけで>その言葉を使うと、逆に一方の世界観でもある、となるね。
自分が勝手に打ち出した概念だが「宗教における『見なしの自由』」ということは、やはり大切なのだなあ、と意を強くした。

■宗教における「見なしの自由」を擁護する…彼の為でなく、我が為でもなく。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111109/p3
■宗教における「見なしの自由」とはこれです。→西原理恵子毎日かあさん」より
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120726/p5

これは「小乗仏教」と「上座部仏教」という用語にも関係していて・・・
くわしくはこの本を参照のこと

つぎはぎ仏教入門

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