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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

ほんの20年前…前日のK-1結果を知るためファンは夜明けの専門店に並んだ(公武堂社長の回想)

前回は「ちょっと急に痩せ過ぎじゃないですか?」「人間ドックへ行ったほうがいいですよ」という話題で放送時間が終わった健康を考える番組、公武堂TVhttp://www.stickam.jp/profile/koubudotv)キャスターの長谷川社長。
この前まで、メルマガ「格闘秘宝館」にロング・インタビューが載っていたので、そこから印象に残る一節を。
長谷川社長の公武堂は最初は武道具の専門店(製造もしていた)のだが、跡継ぎの社長が”家業”に反発したり、上京して格闘技の風に触れる中で、ボクシングのグローブなどを並べるなど、現在のような格闘スポーツ用品も扱うようになったと。
そして、名古屋全体の格闘技を盛り上げることが公武堂の売り上げにも貢献することもあり、ジムのリーフレットをもらって配ったりなどの地道な作業を、趣味も兼ねて始めていく。
そして、長谷川社長は趣味と実益を兼ね、K-1黎明期にこういうことをやっていた・・・

格闘秘宝館
http://www.mag2.com/m/0001270430.html
長谷川 (略)それこそK-1がある日は夕方、会社を抜け出して会場に行くわけですよ。帰りは夜行バスで帰るんですけど、車内で手書きで試合結果を書くんですね。で、朝、店のシャッターを開けると、5人ぐらい店の前で待ってるんですよ。
──試合結果を見るためですか!
長谷川 そうです。だって、東スポよりも早いわけですから。そういうところから始まって「名古屋の格闘技のお店」として認知されるようになって、石井館長がお店に・・・

いや、分かる、その感覚は分かるぞ!!
大会の結果が気になって気になってしょうがない。いち早く知りたい。そのためなら寒空の中、店のシャッターが開くのを待つこともいとわない・・・名古屋の当時のファンは、まだ元気でやってらっしゃるだろうか。
だが、一抹の寂しさは残る・・・というのは、この感覚が分かるのは自分らが最後の世代で、しかもその感覚は自分からも失われつつある。自分より下の世代は、当然最初から体験していない。

インターネットが日本で、本当に一般化したのは90年代の後半になってから。
それ以前は「大会から帰る夜行バスの車中で書いた手書きのK-1結果」が、商売(間違いなくそれで店の知名度は高まったという)になっていた!のである。
そんな時代もあった、ということは、たった20年たらず前の話なのだが、いま記録に残さないと忘れ去られてしまうのでここに紹介しておく。

参考ながら、今はてなで話題の「一世代であっというまに感覚、実感は変わっていく」ということを記したコピペ

■コピペ転載『専業主婦が一般的だったのは高度経済成長期の数十年、たった1世代でしかないという事実』
http://d.hatena.ne.jp/I_really/20120806/1344228641

よくあることなんだけど、今現在の社会的な慣習を永続的なものだとみんな勘違いしちゃうんだよ。
みんなでクルマを持つようになってまだたった1世代。
腕時計をするようになって1世代だが、携帯のせいで売り上げが3分の1に激減
社会人のたしなみと誰も疑ってなかったはずのものが、1世代であっけなく終了。
(略)
バカみたいな飲み会とかやってたのは実は団塊だけ。タバコは今のペースならあと0.5世代で滅ぶ。自由恋愛も1〜2世代ですよね。だいたい告白という風習が少女漫画から広まったものじゃなかったっけ。1世代。(社会慣習は意外とフィクションの影響を受けている)
(略)
ほかにも「実はたった1世代」ってモノや慣習は無数にある。ちょっとこの事実にお前ら恐怖したほうがいいです。

どの大会の試合結果も、ネットをのぞけば、リアルタイムで分かるようになったのが、俺の実感では7、8年目。

逆にいえば「ニュース・情報が『超値崩れ』した」ということ

ぼくの週プロ青春記 90年代プロレス全盛期と、その真実

ぼくの週プロ青春記 90年代プロレス全盛期と、その真実

  • 作者:小島 和宏
  • 発売日: 2008/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
いま実物が手元に無いけど、この本によると。ビッグマッチのあった日の週プロ編集部は、深夜に至るまで試合結果の問い合わせ応対に追われ、後にテレホンサービスを作るようになった。おそらくベースボール・マガジン社もそれなりの収入になったろう。
(※何人かの経験談によると、編集部が応答の手間を省くため留守電に吹き込んだだけで、有料で儲かるような仕組みではなかった、との由。)
自分も一回だけ、武藤敬司vsペドロ・オタービオの試合のときに問い合わせをした(笑)。その節はありがとうございました。

に、しても。
上の公武堂の「深夜バスの帰り道、手書きで書いたK-1結果」を求めてシャッターの前でならぶ人たちも、テレホンサービスにわざわざ電話するファンも・・・20年前、それはある程度の手間、時間、費用をかけても人は求めた。

ちなみに、やはりこのとき長谷川社長は「ニュースを伝える快感」を感じ、それが現在、もっともIT上の格闘技情報番組では歴史と視聴者数を誇る「公武堂TV
http://www.stickam.jp/profile/koubudotv
に発展したのではなかろうか。絶対に単体では黒字にならんものね(笑)。


そしていま、いやおう無く公式サイトで、ブログで、twitterで、youtubeで、それは見られるようになった。
いい時代ではあるが、それが社会に影響しないわけがないし、特に「ニュースの売買市場」が影響を受けないわけがない。きちんとした統計でも数字でも分かる当たり前のことだが、寒い明け方に手書きの試合結果を見て「うおー、アンディ・フグ勝ったよ!」「だれだよこのKO勝利したバンナって?なんかすげえぞ!!」とマニアが熱狂したであろう公武堂の店の前を想像すると、そのことがもっとはっきり実感できる。



これは最近の細野不二彦電波の城」より。いい、悪いではなく実際の流れとしてはまさにこの通りだろう。
最後に生まれるのはメディア版「おじいさんのランプ」なのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/I_really/20120806/1344228641
から再度紹介。

> * 2010年に需要のある仕事上位10位は
> * 2004年にはまだ存在していませんでした。
> わたしたちは指数的に成長する時代に生きています。
> 5000万人の視聴者を獲得するまでにかかった年数
> * ラジオ 38年 * テレビ 13年 * インターネット 4年 * iPod 3年 * Facebook 2年

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gryphon
今日は古新聞(の切り抜き)整理を兼ねて、小ネタとちょっと古い話題が多いのです。

歯痛
>後にテレホンサービスを作るようになった。おそらくベースボール・マガジン社もそれなりの収入になったろう。
あれって留守番電話の応答メッセージ部分に結果を吹き込んでいるだけで、利用者は電話代以外はかかっていないし、会社の利益には1円もなっていないと思います。編集部員の手間を減らすという点では費用対効果は高かったでしょうけれど。


fullkichi1964
93年11月15日、第一回アルテイメット大会の2日後(日本時間では翌日)、週プロ編集部にテレサーでなく、直接電話をかけて問い合わせた者です(笑)。
「えーと、デンバーでの大会に出たシャムロックの結果を・・・」
「少しお待ちください・・・準決勝で敗退ですね」
「え!? じゃ優勝は・・・」
ホイス・グレイシーという選手です」
全てがあそこから変わってしまったというね・・・。



公武堂の社長
今、思い出してもいい時代だったですよ(笑)何だかワクワクすることばかりでした(笑)!

gryphon
当事者としてもそうでしょうねえ。
格闘技黎明期の、あの時代・・・回想にはまだ早いかもですが、さりとて記録しないのは良くない。あのインタビューはタイムリーでした。
そして手書きの結果速報から、ITを活用したネットトークショーへ。