毎度のことながら、この字数でこれだけの論点を網羅出来るの、日本語の限界へのチャレンジすぎる・・・
— 谷口功一 (@KoichiTaniguchi) August 19, 2026
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安藤馨さんが見る国旗損壊罪の有害性 国民統合の役割を自己破壊する:朝日新聞 https://t.co/l1GmpxkBFX
こっちのほうが長いか
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— 吉川浩満 (@clnmn) August 19, 2026

この絵は何だ
歌川国芳《両面相 だるま・げどふ、伊久・とくさかり》(2/7までの展示)は上下反転させても顔になる、江戸時代版トリックアート。上からだと達磨に見える人物は、逆さなら外道に見えるという仕掛けなんですよ。@山種美術館(山崎) pic.twitter.com/jR6M2oISo5
— 山種美術館 (@yamatanemuseum) 2016年1月27日
内容抜粋
国家の実力的強制の目的は、多様な諸個人に共通してその自由な幸福追求の基盤となり、それゆえ自他の人生にとってのその重要性がお互いに承認されるべき、生命身体財産といった個人の具体的利益に対する危害を防ぐことに限定されるべきである。…(略)……不快の範囲を無制約に広げれば時々の多数派の好悪の強制がそのまま正当な立法目的として許容され、自由な社会が損なわれる。そこで、防止されるべき「不快」についても生理的な共通基盤を有する嫌悪感(悪臭、騒音)にとどめ、国旗焼却を目にすることによる嫌悪感といった個々人の特定の価値観や信念に強く媒介される類いの嫌悪感自体の防止は正当な立法目的から除外しておくことが賢明である。
「物」としての国旗や日章旗という意匠そのものではなく、それが象徴する何事かのゆえにそれを大切に思うのであり、保護されるべきは感情自体ではなく象徴の対象である。……日章旗が他国旗のように自由、平等、友愛といった「人類の普遍的価値」を象徴していないことをあげつらうつもりはない。戦前戦後の国体変動を生き延びた日章旗は、国体変動を貫く歴史的な日本国民の国民統合を象徴し、かつ「普遍的理念」をあえて象徴しない(ことにより、価値に関する特定の見解を民主的論議と象徴の対象から排除しないという利点を有する)ものとして理解されうる。
ただし、国旗損壊罪の自己破壊性の問題は国民共同体の自発的引き受けを要請されない外国人には生じない。……(略)本法は外国人のみには正当に適用されうるのかもしれない。日本国民の外国国章損壊が国家の外交作用を害するというのであれば(そしてそれに伴う表現規制が合憲だというのであれば)、外国人の日本国旗損壊も国民の排外意識を醸成することで国家の外交作用を害しうる。国旗損壊罪は、対象を外国人に限定するならば、外国国章損壊罪と同種の法益を正当に保護するものなのかもしれない。だが、この限定がグロテスクな代物でないかの判断は読者に委ねよう。
幾つかの論点で、たとえば自分が質問したり異議を唱えたいところもあるが、
またピックアップというか一つの論点だと思うのは「いうても、すでに『礼拝所不敬罪』がありますよね」だった。そこにも言及があるのはうれしい
信念に媒介される感情の保護を目的とする表現規制の実例として礼拝所不敬罪(刑法188条1項)を挙げることもできる。人々が礼拝所不敬――周知の通り冒瀆(ぼうとく)行為は高度の政治的表現たりうる――の規制を国旗損壊の規制と同様には問題にしなかったのだとすれば…
ここで安藤氏は『礼拝所不敬――周知の通り冒瀆(ぼうとく)行為は高度の政治的表現たりうる』と書いてるけど、同じく法学者、の園田寿氏はオンライン講演でこの論点に対し「礼拝所不敬は殆どが政治性のないものだから」という説明をしていた。そこ正反対だね、というメモ。
あと、自分が何度もいうように国旗損壊罪への否定論は、そのまま多くがHSの法的規制反対論とロジックが重なる、と思われる。
上の引用の最初の部分は、まさにそんな部分が大きいのではないかと思うのだがいかがでしょうか。
伊藤昌亮氏が「曖昧な弱者」について語った記事で、コメントプラス内で相互質疑
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— 透 (@toorutokumagoro) August 19, 2026
不遇なのに、ケアされてない自分たち 「曖昧な弱者」という問題提起:朝日新聞 https://t.co/bZQeTnePQU
この論点は最近、氏は他の記事でも書いていて読めると思うので省略してコメントプラスを
津田正太郎
慶応義塾大学教授・メディアコム研究所
視点
(略)……理解できる展開ではあります。「マイノリティ」と「マジョリティ」との間に境界線を引いてしまうと、「マイノリティ」の側にほぼ勝ち目はないからです。ただ、ここで気になるのは、「左派・リベラル」というのが、具体的に誰で、どういう存在だと想定されているのか……マスメディア関係者や大学教員などが想定されているような印象も受けます。
なぜこれが気になるかと言えば、伊藤先生や私のような大手私立大学の大学教員、あるいは朝日新聞社のような大手新聞社の記者は、何をどう考えようと「アッパーミドル層」に所属するからです。高学歴で比較的高収入でありながら、左派・リベラル政党を支持する自己欺瞞的な「バラモン左翼」と呼んでもいいでしょう。
その立場からすれば、ここでのお話は、自分たちが「敵」となる図式を作るように努力すべきだということになります。(後略)
伊藤昌亮
成蹊大学文学部現代社会学科教授
視点(略)……別にアッパーミドル層を打倒する必要はありません。求められているのは階級闘争ではなく、社会民主主義のリデザインであり、そのための利害調整です。新左翼はそれを自民党に任せたまま、階級闘争に走りましたが、むしろ左派がそれを引き受けるべきなのではないかと思います。
そうした議論になら、将来の持続可能な経済のためにも、あるいは公正という観点からも、アッパーミドル層の中から参加しようとする人もいるのではないでしょうか。それは別に自らを「敵」とするような行為ではありません。むしろ、自らの将来を取り巻く環境を保全するための合理的な行為です。
ちなみにニューヨークのマムダニ市長は大学教員の息子で、裕福な育ちですが、まさに社会民主主義(彼の言葉では民主社会主義)的な改革を断行しています