DREAM公式サイト。
http://www.dreamofficial.com/free/news/detail.php?id=1322214479
以下、適宜引用するが、全部読んでもらわないとこれはどうしようもない。
「……相手選手とは連絡を取り合う関係なもので、当初相手選手は自分とは『闘わない』と明言していたのに、それを覆したことに関して、少し驚きました」と語ると、今回の試合は青木選手からの指名かとの質問に対し「そういうことですね。そういうふうに聞いています」と返答した。
「…自分はいち選手としてオファーが来るのであればというふうには考えていました。でも、結局は主催者であったり相手選手にそういうふうに委ねていたということがもう、間違いというか、自分の甘さだと思う。つまり、いつ来てもおかしくなかったということ。結局、自分という選手は青木真也という選手の掌の中にいたんだなという。相手への怒りというよりも、自分自身の力の至らなさに怒りを感じます」
そして、青木に対して裏切られたという気持ちはあるかとの問いには「そういう見方もできます」と否定はせず、「彼が気分屋でコロコロ考えが変わるのは重々分かっていましたので、それは相手選手だけじゃなく、いろんな状況、いろんなもの、すべてに対して『まあ、こんなものなんだな』という思いはあります。でもそれは、いい意味での“気付き”なんだと思いますし、“諦め”というより“気付き”だと思っています」
「相手はとてつもなく強いなので、ただじゃリングを降りられないだろうし、ただではリングを降ろしません。これを悲壮だというふうに思うのかもしれないですけど、僕はずっとそうやってやってきたので、特別なことではないです。ただの試合です。僕は逆コーナーにいる奴は、親でも兄弟でも本気で殴るし本気で蹴るし、首も足ももぐつもりでやります」と決意の程を語った。
「これで試合をして2人の関係性が変わるのは当然。少なくとも今の時点では、友達でも仲間でもない」
記事を読んで・・・この連想は非常に、取られ方によっては失礼な意味になるが…私が真っ先に思い出したのは、マラソン選手・円谷幸吉の遺書であった。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/isyo/tsumuraya.html
あらためて読むと、文章自体はどうみても単純である。
だが
http://npo-kazokusou.net/column/life004.html
にあるように、この文章は多くの文学者を戦慄せしめた。
自分はこのブログの中に「詩」というカテゴリーを作っていて
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/searchdiary?word=%2A%5B%BB%ED%5D
これは純粋な詩だけじゃなく、さまざまな場に出てくる名言・至言なども目に付く限り収録している。当然、格闘家やプロレスラーの名いも多い。
だが、そういう人間から見ても…今回の北岡悟の会見はすごかった。
ゆえにこの記事のタイトルを「格闘技文学の極北」とした。
自分自身はこのカード自体は
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111123/p1
に書いたように、また会見で主催者、取材者も触れているように「廣田瑞人との挑戦優先権争い」「本来だったら、もっといいタイミングを待ちたかった(主催者認める)」という疑問と、「でも今を逃して、もっといいタイミングが来るのか?」という理屈の正当性はともに感じていてなんとも複雑なのだが、・・・ただ、この「格闘技文学」が生まれたという点だけでも、ひとつの意義は既に達成した、と思う。
ともあれ決まった。大晦日まで、既に40日を切った。
会見動画を見よ!!(全文革命)
既に記事テキストを読んだ人も、絶対に見なければいけない。
私はまだ、技術的な問題もあり、まだこういう会見動画が一般的でなかったときに「会見動画(ノーカット動画)や、ネットの特性を利用し全文を文字起こしした記事は、会見を記事にまとめた一般記事とは違った商品価値、社会的意味がある」(これを「全文革命」と名付けた)としてきて、それに疑念の声もいろいろあったが・・・
この動画が、最終回答、結論だ。
北岡悟・・・いや、”鬼多岡悟”の表情を、口調を、視線を感じよ。
彼が、”青鬼真也”に挑む。
テキストとしては公式のほか、携帯サイト「kamipro move」でも、北岡の全コメントを紹介しています。