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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

ポリティカル・コレクトを消化し、昇華してみせた「月光条例」シンデレラ編

 

明日、次号が出るので早急にかいとく。
御伽噺の世界と現実が交じり合う世界・・・という設定の藤田和日郎月光条例」で、この前はシンデレラ編をやっていた。
で、カボチャの馬車で暴走行為を繰り返していたシンデレラが敵役だったのだが、その暴走のきっかけは「自分は何もしていないのに、王子に一方的に見初められ幸せになっていいのだろうか?」と迷ったことだ・・・という設定でした。
でまあ、なんだかんだとやった後、王子も「シンデレラを一人の人間として尊重していなかった」と反省、シンデレラはお城でやりがいのある福祉関係の仕事も持ち、めでたしめでたし・・・という話でした。

この種の核となる「昔の童話は、女性が自立していない!」てな批判は70年代や80年代にもけっこうありました。
ただ、その批判には「そもそもお話が成立しないだろう」という致命的な欠陥があり「政治的に正しいおとぎ話」という皮肉の本もできた。

政治的に正しいおとぎ話

政治的に正しいおとぎ話

政治的にもっと正しいおとぎ話

政治的にもっと正しいおとぎ話

ですが、今回の藤田和日郎は「シンデレラって、そのままのお話じゃ自立してないし、自分の意志も何も無いじゃん」という話をイデオロギーではなく、その前のソボクな違和感として表明し、それを物語の中で一つの軸に据えてみせた。その身代わり役のヒロインが「舞踏会」を「武闘会」と勘違いするというのは、まあオマージュと思うにしてもだ(笑)。
彼、藤田はむかーし、中学校でナイフによる刺殺事件が起きた時、「これはヒトコト、子供たちにメッセージを発しなければ!」と誰に頼まれたわけでもないのに(笑)、使命感に燃えてやや、というか、かなりゴーインに「ナイフで人を傷つけるということ」を登場人物に語らせたことがある(からくりサーカス)。
これはなんつーか、作品を作品として評価するなら本来的にはあまりよろしくない。そのエピソードも不自然さはありありだ。
だが、なんというか・・・バロックが「ゆがんだ真珠」を意味するように、非常にゆがんだ、本来的には評価できないような無理や不自然が、異様な迫力と気迫を見せていて、それもまた一つの魅力になってくるところが不思議なところだ。
イデオロギーというか、主張をへんに盛り込むことによって失敗した作品としては田中芳樹創竜伝」や井沢元彦の一部小説(90年代前半)があるが、たぶん藤田との違いは絵というものが生む気迫は迫力と、主張が論ではなく、「論以前」言い換えると「美学」程度に収まったからではないだろうか(これ、仮説です)。
なんにせよ、語り口によって図式的な枠組みというものもそれなりに効果を発揮するものだなあ・・・と思った一篇でした。