上にも関連してくる、柳沢発言を再考。
(今までの論評はhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/searchdiary?word=%cc%f8%c2%f4%c7%ec%c9%d7 )
もし「食べる機械」だったら?
例えば食料問題を議論している時にこう言ったとする。
「この人間という『食べる機械』は、一年でコメを約150kg(=一石。もともと「石」はこれを基準に作った単位だ)消費する。日本全体なら、そのおよそ一億倍が必要になることになる」
当然、これは現実にはそぐわない。米ではなくパンを食べる人もいるし、小食の人も大食いの人もいる。
だが個々人のライフスタイルや個別の差をとりあえず平面的にして、物理的な側面から数字を出すためにこういう計算をする(出産可能の人を15-50歳の女性とするように、一年150kg以上米を食べる人はそういない)ってこともあるわけだな。
これは失礼だろうか?前に書いたように、失礼と今では取られかねない。
また、「米を食べるというのはそう例えてもいいが、出産はもっと神聖で偉大な行為なので「子どもを産む機械」「生む機械」は失礼なのだ」というスタンスもあるだろう。
ただ、それは表現の悪さ、その表現を選ぶ選択=政治家としての資質のまずさ(機転のきかなさ)であって、論理の骨格自体が差別的なのかとなると少々違っていると思うが。これは柳沢厚労相が弁明に使った「人口統計学」のためにも多少同情する。
柳沢失言と筑紫哲也失言(1995年、阪神大震災)はそっくり、だが
今回の失言で、例によってTBSのニュース筑紫哲也氏は大臣をいろいろと批判しているのだが、ひとつ筑紫御大に対して申し述べたい。
今回の失言は、「ある事例を、それに例えるとその言葉のイメージからネガティブ・もしくは不謹慎と思われかねない、そぐわない事例に、単純な類似点だけに着目して比喩にしてしまった」という形だ。
で、これは筑紫哲也氏の、以前の「まるで温泉場」発言に類似しているわけだが(笑)。
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB%E5%93%B2%E4%B9%9F
1995年1月17日の阪神大震災で、被災地からの生中継で、焼けた建物から上がる煙を見て第一声に「まるで温泉地に来ているようです、そこらじゅうから煙がまいあがっています」といった。
小生は、この発言に関してはhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050118#p4 で書いたように「単純な失言に過ぎない」と、かばってあげている(笑)のだが、「2002年以降のテレビ評は、すべて彼女のコラムへの注釈に過ぎない」と言われる(言ってるのは俺だが)故ナンシー関は
「いいのかそれ。・・・現場に弱いのか、筑紫。」
と書き、今に至るまでこの評言はこうやって引用されているし、同画伯は入魂の版画「筑紫 IN温泉場」も残している(笑)。
で、「この失言で筑紫はキャスターを辞任するべきだ(った)」とまでは思っていないのだがひとつ筑紫氏と柳沢氏には違いが。柳沢伯夫は一応「産む機械」を撤回、謝罪しているのに対し、意外や筑紫哲也氏はこの「温泉場」発言を失言であるとは認めず、謝罪してもいないのです。
それは氏の著書「ニュースキャスター」と、批判を浴びた直後の週刊金曜日「テレビ・バッシングの中でマスコミ志望の君に」という文章で分かる通りなので一読を薦めたい。
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