INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

汝、自らの「血と骨」を語れ・・・姜尚中論

みそかの隠れた顔、「朝まで生テレビスペシャルにも出演した姜尚中氏、今回も経済制裁消極論や「東アジア共同体」、「6カ国協議」への過剰な期待をぶっておりました。

この種の言動への批判は何度もやっていたので、ずっと前に読んでいた氏の自伝、「在日」について話してみたい。

在日

在日

まず同書の冒頭では、氏の両親の日本に来た経緯と、その後の生活が語られている。
多分にもれず、熊本での姜一家は養豚、ヤミどぶろく、廃品回収などである時期まで生活には苦労したらしい。氏の母親は密造どぶろく摘発の税務署の車に投石したこともあるとか。
善悪や主義主張にかかわらず、たくましく異郷で暮らしを営んだ一世のタフネスとバイタリティには敬意をあらわしたい。
ところで最初に確認すると、氏の両親は

「父が日本に来たのは、満州事変の年だった。若干15歳のときである。着の身着のまま、単身、日本にやってきたのだ・・・韓国南部の典型的な貧しい小作人の長男に生まれた父は、貧しさに押されるように賞主国にたどり着いたのである」


「母が許婚の父を尋ねてくるのが、太平洋戦争勃発の年である」

同書ではブルース・カミングスを引用し、1930年代の不況や植民地の強制的な工業化が人口の流動化をもたらした、としているが、それをいわゆる「間接的強制」と定義するかとはべつに、いわゆる「強制連行」・・・徴用、徴兵のたぐいで姜尚中氏の両親は日本に移住したわけではないというのは、貴重な情報であろう。
そして、目を引くのは、姜氏が書く叔父(父親の弟)の肖像だ。
彼の戦前、戦中の職業は・・・なんと大日本帝国憲兵


彼に関しては、姜尚中氏は

・・・当時の植民地出身者にはめずらしく大学で法学を学び、
やがて憲兵になって熊本に赴任することになるのである」

と書いているが、昭和初期に「大学」で学んだ? 「韓国南部の典型的な貧しい小作人の長男に生まれ、着の身着で単身、日本にやってきた」兄を頼ってその後来日したであろう叔父が、どのようにして日本で?大学に進んだのか。さっぱりその辺のあやが判らない。
戦前の大学生が、どれぐらい極少数のエリートであったかはいうまでもない。兄は「身を粉にして働いた」というが、それだけで小作人の息子、そして半島出身の出稼ぎ者が大学に行ける「ジャパニーズ・ドリーム」が存在していたのか?


また、姜氏本人も「60年代の終わり、わたしは熊本を離れ、ひとり上京した。やがて早稲田大学政経学部に入学することになる」とあっさり書いているが、1970年以前の大学進学率は2割以下。安田講堂事件など一連の学生運動と警察との攻防では、メディアで「警察の横暴は、家の貧しさで大学にいけなかった警官たちのひがみ」などの心無い論評がなされていた時代だ。
しかも自宅通学とかではなく熊本から東京に下宿して、学費の高い私大の早稲田に学ぶ・・・。
ましてやその後、姜尚中氏は博士課程に進み、1979年にドイツに留学している。
要は、姜尚中氏の生家は少なくとも彼の思春期以降、水準以上に裕福な家計であったと考えるのが自然であろう。


別に不思議なことでもない。
神武景気もカネへん景気も鉄くずのような物資を扱っていた業者はまず大もうけしたものだし、その後の高度成長時にも日本は外国からの単純労働者をドイツなどのように受け入なかった。
農村からの「金の卵」の都市圏への移動も終えた日本では、いわゆる3K労働への需要はその業種へのペイ増大で乗り切っていった。だから氏の生家が普通以上に経済的に繁栄しても、また別の業種を高度成長の中で成功させてもそれは珍しいことではあるまい。


しかし、赤裸々に在日と自らの歩みを振り返ったとの触れ込みであったこの自伝で、なぜ自らの父親の、おそらくはドラマチックであったろう社会的成功を一言もふれないのか。
叔父の問題とあわせて、彼の「在日」への複雑な思い(複雑であって当然だ)は、実は未だに整理されていないのではないか。
それならそれで、その迷いを書いてみてはどうか。
矛盾を矛盾として正視せず、糊塗するのは、現在の韓国政府の「太陽政策」にも似ている。


そして、氏は90年代、湾岸危機・湾岸戦争をテーマにした「朝まで生テレビ」で華やかなメディアの世界に登場、その後戦後認識問題がひとつの重要なテーマに成った細川連立政権などを経て、朝生の「代替わり」(小田実野坂昭如大島渚、西部進、桝添洋一などはそれぞれ消えていった)の中で左・進歩派側のトップとなった。
そのへんのことは私は全部見ているし、1990年代に1回、ごく短い会話を交わしたこともある。


だからその後の記述は退屈であるのだが、ちょっと困り者なのはこんな記述だ。

「2000年6月、金大中氏が平壌を訪れ、南北分断以来はじめて南北首脳会談が実現したことにである。あの金大中氏が分断以来50年にして、画期的な歴史の1ページを開くことになるとは・・・」

5億ドルの賄賂を独裁者に払って、ノーベル平和賞を買い付けたあの喜劇をである。
http://www.mochida.net/report03/6nksg.html

もちろん本人も、
「日がたつにつれ、あの首脳会談は政治的なショーに過ぎない、という声が上がる」
と触れている。しかし、離散家族の面会が増えているやた南北間の鉄道が実現の運びだというのに加え「首脳会談がなければ核危機はもっとシリアスだった」との議論で

わたしは、金大中政権の「太陽政策」、積極的なエンゲージメント(関与)政策を高く評価したいと思う

と、自殺者まで出したあの権力犯罪を弁護している。
余談だが、朝生では「北とはまだ(法的には)戦争中なんだから超法規的行動も許される」と、栗栖統幕議長がよろこぶような発言をしておりました。

それでもこう言う彼。

わたしは当時(註:大学時代)から北朝鮮をあるがままの現存する社会主義国としてやや突き放してみていたように思う。

うそつけえ、とも思わんでもないが、つうかそれ以前にあそこは「現存する社会主義国」以下の以下であり、「やや突き放して」どころか最低最悪の体制としてもっと激しい批判をするべき相手だったのではないですかねえ。
おまけに

左翼やリベラルな知識人も、本当の朝鮮半島をみようとしていなかった

とあるが、そのときに言えって(笑)。
AERA「現代の肖像」でも「北朝鮮を美化していた人には、責任を取ってほしい」と言っていたな。

いや、今でもいいんだが、例えば同じ東大の和田春樹氏に、何も言いたいことはないのかな。
さらに言えば、あなたがしばしば寄稿する岩波書店「世界」・・・ここが「本当の朝鮮半島をみようとしていなかった」ことに対し、貴方が批判の声を浴びせたことありますか?


もちろん、リベラル側の学閥、論壇閥を遊泳する際に、いわばローマ教会のごとき権威を誇る岩波書店の機嫌をそこねることは不可能であることは判る。破門されるわけにもいかんもんね。
でもなあ。・・・ま、しょうがないか。