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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

入江秀忠の挑戦。

男は、後悔をし続けていた。
自分から全盛期の力が失われていることを、自分が、一番知っていたのだ。
食うための仕事。
興行を行うための、あらゆる仕切りと雑事。
そのためには、まず練習時間を削らねばいけなかった。

たまの他団体からのオファーは、まだ実績も知名度もない、若手選手が相手だった。
技術では上回っているとの自信はあるが、その「イキの良さ」だけでも自分にとって脅威であることは、試合の中で分かってきた。
勝ち星が、思うように得られない。逆に自分のそこそこの知名度が、相手にとってはおいしいのだと気づいた。

このまま下り坂を降り続けるのか・・・
そのとき、もはやロートルではあるが、数々の実績を残した世界級の選手と戦ってみないか?という話が舞い込んできた。
自分が今後、これ以上の相手とめぐり合える保証はない。
体重差も練習不足も覚悟して、男は海を渡りリングに立つ・・・



と、夢枕獏の出来損ないのような要約をしてみたが、紙プロ75号に載った入江秀忠のインタビューはまさにこのようなものだ。彼も今成正和選手や鬼木貴典選手など、若手のいろいろな形での障害になった部分もあるようだし、全面的な応援も出来かねるが、それでもなお。松沢チョロ氏が引き出したあの告白は胸を打つものだった。

・・・ちなみに全盛期は何歳ぐらいの時だったと思ってます?

「20代後半ぐらいの時ですかね。その頃は、いろんなところにスパーリングの出稽古に行って、強いと言われてた選手とかとスパーして5年間ぐらい一本も取られなかったんですよ」

・・・その頃だったら、もっといい成績を残せたという思いがあるんですね。

「はい。でもそういう時は僕から逃げといて、逆に僕が団体背負っちゃって満足に練習が出来なかったときになって試合が組まれたんで。その時の僕で評価するのはやめてほしいですね」

このへんのくだり、自己宣伝もなくはないだろうが、基本的には事実じゃないかと思う。「シュート革命」が1993年、その後、フリー状態の選手を積極的に各団体が個々に呼び込んでいく流れが出来たのは大まかに言って2000年ごろから。
そこからさらに遅れて、DEEPなどに出たわけだからね。
そのDEEPで、体重差はあれど藤沼弘秀選手を完封したわけだから弱いわけもあるまい。

山本喧一に挑戦なんて話もあったでしょ。

http://www20.tok2.com/home/gryphon/JAPANESE/list/aribai.htm
「山本さんとは末期のキングダム時代に道場でスパーリングやってるし、ボクの実力は知ってるはずだと思ってます。だから、それでボクの実力がないって言ってるのであれば、それはおかしい。」

これが実現していれば、PRIDEは1回ぐらい呼んでいたかもしればいのよ。


「全盛期の時にデカい団体に入って、社長業もやらずに練習一本に打ち込んでいればもっと上に行けた自信はありますよ。そういう意味では運もなかったと思うし、もっと上手く立ち回っていたらなって思うときもありますね(略)二股かけていい方にいくとか、メリットのあるほうに擦り寄っていくとかできなかったですから」

入江選手のほかにも、本当に多くの有望選手が生活によって練習時間も削られ、あるいは戦いの場から去ることを余儀なくされていたことに思いをはせる。
何人もが、こういう悔いを抱いてグローブを置いたのだろう。
だからこそ、それが保障されている選手は発奮せねばならないはずだ。


「僕も若い頃とか売れない頃は、くだらないワークもやったことありましたけど(苦笑)」

・・・衝撃のカミングアウトですね!薄々気づいてはいましたけど(笑)

それが取り残された一因ではないかとも思うが、本人が腹をくくった以上何をいうこともない。あとはその最期を、こちらも腹を据えて見届けてやろう。