Xは多くの目に触れる所だが、あまりに「奔流」であり、すぐ流れてしまう。
「ため池」を作って膨大な水をためておく。それだけで豊かな実りがある……
これは大いに参考になりましょう
自分は、たしか銀河英雄伝説で、ラインハルトは権力を握ったあと、ローエングラム王朝の幼帝をどう扱うか?というやりとりの中で「中国の歴史でも、あまり前王朝の退位者などに苛烈な待遇はしていない」という話が出てきて、ほう、そういうものかと思った記憶がある…そこを探したが見つかんなかったので、実際にラインハルトが「王朝交代」を行った5巻の記述を紹介しよう

以下、本題(殭屍の史林堂 @Jiangshi2020 氏のポストより)
>王朝が変わるたびに、前の王家は根絶やしにされ、国の名前も、支配者の姓も、すべてが変わった。
— 殭屍の史林堂 (@Jiangshi2020) April 17, 2026
↑中国にも「二王三恪」という前王朝の子孫に特権を認める文化がありまして…。
そもそも新王朝は前王朝の群臣を吸収するので、ノスタルジックに浸る彼らを逆撫でするようなリセットは得策じゃない。 https://t.co/VFgOCMruk0
戦国時代に作られたであろう堯舜の禅譲伝説の頃から、中国の知識人には王朝交代が大前提であり、日本みたいな万世一系を想定していない。
新王朝の祖は、いつかくる滅亡のために、前王朝の血統や祭祀を守ることで、天命は尽きても自分達のそれが残るようにしている。
まぁ、始皇帝みたいな万世一系志向のイレギュラーは存在するし、近世以降の二王三恪は形骸化したというのは補足しておく(地位は与えても特権が無い)。
【特権とは?】
新王朝でも引き続き"皇帝"の振舞いが許される(皇帝の前で拝礼しなくて済んだり、天子の車や衣装を着られる)。
葬儀も天子にのみ許された最高の格式で行うことができた。これが形骸化したのが近世で、例えば延恩侯(明朝の子孫)は一般貴族と変わらぬ群臣として清朝皇帝に服従した。
「「守っている王朝のほうが少ないだろ!」」
— 殭屍の史林堂 (@Jiangshi2020) 2026年4月18日
という皆様の声に答えて整理します。
【殷周】
夏の末裔を杞に、殷の末裔を宋に封じる。
※春秋時代までは敵の祖先霊に祟られると信じられていたので、国まで滅ぼすことは少なかった。恐らくはこの時代の気風が二王三恪制度に繋がった思われる。
【秦】
周王と六国の君主を庶民に落とす(斉のように餓死させれられた君主も)。
※アンチ儒教の法治国家、万世一系を志向した始皇帝の方針か。
【漢】
項羽によって秦の皇族が全滅していたため(自業自得)、殷と周の末裔のみ封爵する。
※孔子は殷朝の末裔のため、殷のそれは孔子一族の封爵と兼務。
【新】
儒教オタクの王莽によって殷周漢の子孫はおろか黄帝、少昊、堯、舜、伊尹のような伝説上の子孫まで封爵。
※なお、後漢から王莽子孫への封爵は無かった(残当)。
【魏】
漢朝最後の献帝を山陽公に封爵。
魏皇帝に臣下の礼をしなくて良い特権などかなりの高待遇であり、その地位も世襲された。
※漢朝四百年の歴史に対する配慮がうかがえる。
【晋】
魏元帝を陳留王に封爵。以後南朝宋まで二百年の保護を受ける。漢朝の山陽公もそのまま継続。
【宋斉梁陳(南朝)】
宋は晋の恭帝を霊陵王に封爵。斉まで世襲。
斉は宋の順帝を汝陰王に封爵。陳まで世襲。
梁は斉の和帝を巴陵王に封爵。陳まで世襲。
陳は梁の敬帝を江陰王に封爵。陳まで世襲。
(続き)
※なお、これらの君主は禅譲後すぐに殺されるが、傍系の皇族がその地位を継承した。
前王朝リセット論はこの前半部分だけ取り上げた話が広まったものと思われる。【五胡十六国〜北魏(北朝)】
色々調べたが、おそらく封爵なし(もし事例を知っている方がいれば教えて下さい)。
【北斉&北周】
北斉は東魏の孝静帝を中山王に封爵するも、すぐに子ども共々殺害。
北周は西魏の恭帝を宋公に封爵するも、すぐにこれを殺害。後に西魏の皇族から韓国公を封爵。
※儒教倫理に縛られない北方由来の王朝は二王三恪に対する熱意が低いか。
【隋】
北周の静帝を介国公に封爵するがすぐに殺害。別の北周皇族に改めて爵位を継がせ、韓国公と併せて以後世襲させる。
【唐】
隋の恭帝を酅国公に封爵するがすぐに殺害。別の隋皇族に改めて爵位を継がせ、介国公と併せて以後世襲させる。
※周(武則天)の時代も隋&唐の皇族を封爵。
【梁唐晋漢周(五代)】
後梁は唐の哀帝を済陰王に封じるが殺害。別の唐皇族から莱国公を封爵。
後唐は大唐の後継を自称したため、統一王朝時代の二王三恪を継承。
後晋は後唐の許王を郇国公に封爵。
※後唐末期は継承争いで皇帝が不在。
(続き)
後晋の末帝は遼(契丹)の捕虜となり負義侯として封爵。
※遼による"名ばかり封爵"で実態は流刑。後漢は三年しか存在せず、前述の混乱から二王三恪が未実施。
後周も後晋と後漢の皇族を探し出して封爵。
※五代十国はハイペースで王朝交代するから、南北朝以上に二王三恪が不徹底な印象。
【宋】
おまたせ!二王三恪の模範王朝。
後周と柴宗訓を鄭王に封爵し、それ以外の五代王朝や十国の子孫も官にして彼らの宗廟祭祀に当たらせた。※後周は別格だからともかく、「官にする」というのが近世の二王三恪が特権ある封君から単なる役人へと移行した(皇帝独裁の強化)のを感じさせる。
【元】
当初は南宋の恭帝を瀛国公に封爵。
しかし後に僧侶にさせるためチベットに追放し、最期はそこで賜死させている。以後は誰も封爵しなかった。
※異民族王朝は圧倒的多数派の漢族を抑え込むため、漢人王朝以上に疑わしきを罰する傾向にある。
【明】
洪武帝が拉致った元朝皇族マイダリバラを崇礼侯に封爵。政治的な思惑から意外にも厚遇し、成長したら蒙古へ返させた(北元のエルベク・ハーン説あり)。
※明朝に友好的な傀儡用の人材育成という要素が強い。一代限りの特例だし、厳密には二王三恪と呼べない気もする。
【清】
雍正二年より明朝末裔の朱之璉が延恩侯として封爵され、以後は民国まで世襲される。
※朱之璉は傍系中の傍系(朱元璋13番目の子の末裔)であり、そもそもが漢軍八旗に属する体制派の人材。
清朝のメンツを守るために用意された事実上の墓守という要素が強い。
おまけ【中華民国】
宣統帝溥儀が民国政府から受けた「清室優待条件」は現代版"二王三恪"。
外国の国家元首と同等の儀礼を受ける権利や歳費の支給を受けた。※ゆえにと言おうか、10年も立たずして約束は反故された。そういうところまで似ている。
