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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「入場テーマ曲」文化、その先駆と定着〜ビリー・グラハム逝去の報と合わせて


WWEは、元WWWFWWE)ヘビー級王者でWWE殿堂者のスーパースター、ビリー・グラハムさんが死去したと発表した。79歳だった。

 米ニュースサイト「TMZスポーツ」によると、グラハムさんの家族が17日(日本時間18日)に生命維持装置を外された後に死去したと語ったと報じた。
(略)
〝狂乱の貴公子〟リック・フレアーも自身のフェイスブックで「スーパースターのビリー・グラハムが我々のもとを去った。私のキャリアに影響を与えてくれてありがとう」
news.yahoo.co.jp

正直、試合をみたことない。
同タイプのジェシー・ベンチュラとよく頭の中で混同したりもする。


だけど、筋肉をガンガンに鍛えて、髪をブロンドに染めて(これが重要らしい)、ド派手なガウンとコスチュームを付けて、言動や戦いぶりがとてもナルシスティック……「カッコいいかもしれないが、とても鼻もちならねぇやつだぜ!」という形での悪役として、男性観客のヒートを誘い、一部女性ファンはクラクラ………というのは、元祖というよりもリバイバルルネッサンスらしく、実のところ悪役としてのスタイルでは”古典”というべき存在……らしいんだな。魂やすらかなれ。


さて、スーパースター・ビリー・グラハムには、もうひとつの称号が付く。

74年9月にIWA世界ヘビー級王者として国際プロレスに初来日した。

 入場時には、ロックミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」のテーマ曲が流され、これが日本マット界の入場テーマの草分けとされる。


その通りなのだけれども、それが広がりを欠く、いわゆる『孤例』であり、本格的に入場テーマ曲というものがプロレス界で生まれ、定着し、そして他分野に広がるまでには、また別の動きがあったわけです。この辺の歴史が、研究者によって地道な研究がなされ、明らかになっているので、自分の知っている範囲でまとめてみよう。


といっても、まぁ有名な話です。グラハムの例もあるし、一般的な「ファンファーレ」が鳴り響く中の入場なんて演出はあったけど、テーマ曲人気に火をつけたのが、ミル・マスカラスと「スカイ・ハイ」であることは、まあ常識に属する(何の常識だよ)

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なにしろ当のジグゾ―のほうで
「なんかこの曲の印税が、ずーっとジャパンからたくさんもらえるんだけど…」
「何かのテーマソングになってるらしい…会場で流れてる…スモー・アリーナだったか…」
「そうだ、スモーだ!!相撲でこの曲が使われてるらしい!」

と、ちょっと誤解されつつ誇らしげに語ったりしているそうだ(笑)



これはテレビ局主導の演出、アイデアであって…本来なら裏方の一仕事であるから、語られず消えてもおかしくない。
しかし昭和・平成プロレスのことをしつこく調査し続けるアレな雑誌「Gスピリッツ」等が多くの取材をする中で、この裏方の中に、まず定年後もお元気で頭脳・記憶が明晰、さらに超詳細な記録を残しているひとがいた。
その人に詳しく資料を出してもらい、話を詳しく聞く聞き手もいた。
その結果、とんでもなく面白く、重要な歴史書が最近生まれている。


この本は、全体像をあとで紹介したいが、今回は入場曲に限って。


この中で、バイネームとして、令和の今は「文化」として定着した「入場曲」「入場テーマ」(彼がいなかったら、こういう二語の合わさった言葉は誕生していないかも…)の考案者が歴史に刻まれたのだ。
それが、「梅垣進」ディレクター。新日に押されていた感のある全日本プロレスを盛り上げるためにあれこれ頭をひねっていた彼は、博多出張の夜に訪れたディスコで、「スカイ・ハイ」を耳にする。

「ディスコでこの曲が流れた時、僕の中で「この曲はミル・マスカラスにぴったりだな』と思ったんです。それで、マスカラスが来日する次期シリーズの参加選手を予告するVTRにこの曲を流すことにしたんです。僕は映画が好きなので、映画の予告編をイメージしてVTRを作りました」
昭和52 (1977)年。2月19日に後楽園ホールで開幕する「エキサイト・シリーズ」でミル・マスカラスの来日が決まると、前のシリーズ「新春ジャイアント・シリーズ」の放送でマスカラスの映像に「スカイ・ハイ」を乗せ、まさに映画のように次期シリーズの来日を告知した。……「スカイ・ハイ」は視聴者から大きな反響があった。

「これがオンエアされると視聴者の方から大変な反響をいただきました。だったら、この「スカイ・ハイ』をマスカラスが入場する時に流せば、会場もテレビも盛り上がるんじゃないかと思って原さんに相談しました」
原(※梅垣の上司、原章プロデューサー。この人も日本プロレス史の最重要人物。)は、梅垣に選手の入場時に音楽を流したいと言われたことを覚えていた。
「私は『いいねぇ。それ面白いねぇ。やったらいいじゃん』って、そんな感じで許可しましたよ。私は、自分が野球中継で企画したカメラの配置が通らなかったことがありますから、スタッフが『これをやりたい』と言ってきた企画はほとんど反対したことはありません。面白いものはどんどん通しました。ディレクターが中継のセオリーを守りながら自分の好きなことがやれるのがプロレスの面白さでした。梅垣はいろんなレコードを引っ張って来てテーマソングを選んで好きなようにやっていました」

こうして2月19日、「エキサイト・シリーズ」開幕戦の生中継を迎えた。馬場、デストロイヤ1組と対戦するロン・バスと組んだマスカラスが入場した時、後楽園ホールに「スカイ・ハイ」が流れた。
中継車の中で梅垣は観客が大きくどよめいたことを確認した。
「ファンが喜んでくれて、ホッと一安心しました。そしてこれは行けると思いました」
テーマソングに心を揺さぶられたのは観客だけではなかった。放送席で実況した倉持も高揚した。
「この日の放送で打ち合わせの時に梅垣から『今日、マスカラスの入場の時にこれを流します。曲の名前はスカイ・ハイです』って言われました。私が『いいねぇ、華やかになるね』って返したら、彼は『テーマソング』って実況してください』と言いました。

客席は「これは、何だ!」っていう感じで一瞬静まり返りましたよ。それから大歓声と拍手ですよ。凄かったですねぇ。画期的なことを梅垣はやりました」
テーマソングがなかった時代と比べ実況は変わったのだろうか。
「それは変わりますよ。テーマがかかると、こっちも乗っていきますから。全然、気持ちが違いました。特に私は、ブッチャーのテーマは乗ってしゃべりました」


梅垣は、「スカイ・ハイ」から全日本に参戦する外国人、そして馬場、鶴田ら日本人選手のテーマソングを付けることに熱中した。「スカイ・ハイ」やスタン・ハンセンの「サンライズ」のように自らが聴いた中からの選曲もあれば、ブルーザー・ブロディレッド・ツェッペリン「移民の歌」、アブドーラ・ザ・ブッチャーピンク・フロイド「吹けよ風、呼べよ嵐」などのように「ファンの方がはがきで『この曲を使ってください』と投書してくれて、そこから使ったものもあります」と明かした。



国内のプロレス団体で選手に入場テーマソングを付けたのは国際プロレスが昭和44年に来日たスーパースター・ビリー・グラハムの「ジーザス・クライスト・スーパースター」だが、時は定着せず、他の選手へ波及することもなかった。現在、プロレス興行で選手の入場テーングは当たり前となっている。この演出を本格的に実行したのは、まさにこの時の梅垣と言って過言ではないだろう。

過不足ない説明で、しかも臨場感や回想者の高揚感にあふれている名場面なのでついつい長く引用してしまった。

ただ、ここに既に歴史を語る難しさがある。
資料を見て、機械的に年号を比較するなら仮面貴族ミル・マスカラスより、確かに”スーパースター”ビリー・グラハムのほうが日本のプロレス会場で個人の入場曲を鳴り響かせた時期は早い。
だけど、それが連鎖的に影響し、ファンに受け入れられ、他の選手に波及していき、文化になる流れの元祖、といえばやっぱりマスカラスになる。
こういう歴史描写の微妙さというのはあるんだろうね。このへん、またもうひとつ後述すべきことがある。



なるほど、「入場曲」と「テーマ曲」を別用語として使っているのか。



さて、その入場曲(テーマ曲)文化は、いつの間にかアメリカン・プロレスにも広まる。
何しろ普通に、レスラーは日米を行き来している。ジャパンの会場じゃこんなことをやってるんだぜ!というのが茶飲み話になったり、それじゃあうちもやってみるか!となったりしても全然おかしくないだろう。ウメガキのアイデアは太平洋を越えたか…と思いきや、実はほかの資料では、意外な…彼らを源流としている


斎藤文彦氏の新書「忘れじの外国人レスラー伝」より。

アメリカンプロレスの「入場曲」は、日本経由というよりフリーバーズのアイデア?(斎藤文彦

まだ15歳だったゴーディと17歳のマイケル・ヘイズが出逢ったのはテネシー州メンフィスで、ふたりは旅のパートナーとなり、それから1年後の77年にタッグチームを結成した。ヘイズも14歳のときにハイスクールをドロップアウトし、フロリダ州ペンサコーラのローカル団体でリング屋のアルバイトをはじめ、16歳でプロレスラーになった。ファビュラス・フリーバーズというゴージャスなチーム名――伝説のロックバンド、レナード・スキナードLynyrdSkynyrdの名曲“フリーバードFreeBird〟から拝借したーーーを思いついたのはヘイズだった。
ヘイズがナッシュビルのプロモーターのニック・グーラスに「入場のときにスキナードの“フリーバード”をかけていいか」「アリーナのなかを真っ暗にして、楽屋から出てくるオレたちにピンスポット照明をあてるってのどうだ」というアイディアをぶつけた。グーラスの返事は「お前ら、ドラッグで頭がイカれたか?」だった。


ヘイズはこの企画をテネシーのもうひとりのプロモーター、メンフィスのジェリー・ジャレットのところに持っていった。ジャレットは共同プロデューサーのジェリー・ローラーと相談して「おもしろそうだからやってみろ」と答えた。サザン・ロックの音とプロレスのライヴの雰囲気は驚くくらいマッチした。音は大きければ大きいほどよかった。
(略)
フリーバーズが“フリーバード”で入場してくるようになったら、南部のほとんどのレスラーたちがBGMを使うようになった。ひとつのトレンドが誕生した。
"自由な鳥たち"フリーバーズは、メンフィスからルイジアナオクラホマミシシッピアーカンソーミッドサウス・エリアへ流れていった。ゴーディとヘイズにとってフリーバーズはただのタッグチームではなくて、ロード・ムービーのようなライフスタイルだった。


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フリーバーズ、ただのプロレス・スターウォーズでやられた相手ってだけじゃない(笑)

南軍旗を振りかざす悪役フリーバーズ、テリー・ゴディマイケル・ヘイズ(プロレススターウォーズ、)


これまた、時系列を機械的に見たら、日本のプロレスの入場曲の演出がアメリカに伝わり…と誤認しかねないところだが、そう言う文脈もあるんだ。



自分の認識はこんなものだったけど、ところが……さらに遡る!!それも一気に!!!

1940年代~1950年代、これはテレビの黄金時代であったといわれている。
日本ではこの時代に力道山が日本の英雄として持てはやされていたが、同じ頃別のレスラーがアメリカを騒がせていた。

その男の名前は「ゴージャス・ジョージ」。
名からわかるように、ゴージャスな姿を持ち味にしていた。
入場の際にはエルガーの「威風堂々」、そして執事とマネージャーを連れ執事がハンカチをひかないと入場しない…
(略)
彼は「威風堂々」をエントランステーマとして取り入れた。

これは「入場曲」を設定した世界初のレスラーでもあったのだ
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入場
ジョージの最大の見せ場でもある入場シーン。入場曲を使った最初の選手と言われる。

まず赤絨毯が用意される。『威風堂々』が流れ、ピンスポット照明を浴びながら執事と女性マネージャーに先導され登場。観客を挑発しながらゆっくりと進む。
執事が香水(銘柄はシャネルの『10番』という架空のもの)でリングを消毒するまで、リングサイドでシューズを拭きながらペアピンや花束を観客席に投げ込む。
レフェリーや相手を見下しながら紹介を受け、試合が始まれば反則一辺倒。
『威風堂々』は、後にランディ・サベージも入場曲として愛用した。
ja.wikipedia.org


斎藤文彦の上記文章でも、省略部分に「ゴージャス・ジョージの例もあるけど…」という趣旨の一文がある。

そもそも当時…テレビ黎明期のアメリカで、ジョージは大スター中の大スターであり、上に書いた
『髪をブロンドに染めて(これが重要らしい)、ド派手なガウンとコスチュームを付けて、言動や戦いぶりがとてもナルシスティック……「カッコいいかもしれないが、とても鼻もちならねぇやつだぜ!」』
というスタイルは、その継承者でスタイルを完成させたバディ・ロジャースをさらに遡って、正真正銘の『真祖』であると言ってよさそうだ。最近書いたばかりだけど、悪役として悪目立ちして、あいつがぶっ倒されるところを見てえ!と観客を呼び込んでフルハウスにさせるそのスタイルは、モハメッド・アリにも継承されたりしたのだから。




だが…そんな黎明期に「入場テーマ曲」は生まれていたのに、そこからの発展はなかった。エジプトのピラミッドか、ギリシャの民主政治か……
自分の推測だが、ビリー・グラハムの入場も周囲に拡大、波及しなかったのと同様で
『ナルシスティックな悪役のあいつだから、ただの入場にお気に入りの音楽をかけて、自己陶酔して入ってくるんだぜ!いやだねーーー』という文脈で『入場曲』が使われたが故に、清く正しい正統派のベビーフェイスレスラーや、ナルシシズムより狂気と野生の本能が先に立つ、みたいな野獣タイプの悪役には、波及させようもなかったんじゃなかろうか。


こういう、文脈の複雑さも、ごく単純な「入場曲文化の歴史を調べる」だけで生まれてしまうのだなぁ……



そして月日はながれ……いまや個別の選手や芸能人に関して「入場曲」とか「テーマソング」はおなじみの演出。お堅い公的スポーツにも採用されたりしてる
(自分の知ってる限り、水泳、フェンシング、レスリングで使われてたと思う…)


米大リーグの野球選手ラーズ・ヌートバーが、2023年のWBCの記憶をこう書き残している。

…バッターボックスに足を踏み入れると、球場全体の5万人ものファンが、僕の応援歌を歌い始めてくれる──お祖父ちゃんから受け継いだ僕のミドルネーム、達治のコールとともに。今考えても、感情が込み上げてくるよ。

大会が始まる前、母さんはその応援歌がどれだけ特別なものかを教えてくれたよ。「日本のファンがあなたに敬意を示して歌ってくれるかどうか、私にはわからないわ。あなたは日本のプロ野球選手ではないから。それでも、彼らは歌ってくれるかもしれないけれど」と彼女はずっと言っていたんだ。

そして彼らは僕の第一打席から歌ってくれた。母さんとお祖父ちゃん──オリジナルの達治だ──が、スタンドから見守ってくれていたなかで。

僕は初球を打ち返し、このマジカルな冒険がどんなスタートになるか試してみた。すると、クリーンヒット。よし、やっちゃおうぜ!

いやほんとに、あの応援歌と初打席は人生でもっとも光栄に感じた瞬間のひとつになった。絶対に忘れないよ。

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かくのごとく、今後も広がっていくだろう入場曲・テーマ曲の文化。
その立役者のひとりの訃報とともに、おもいつくままメモした(にしては長文なのは許してくれ…)

(了)

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