「中公新書「最後の審判」 終末思想で読み解くキリスト教」からメモした。
世界の終末に神が人類を裁くことを「最後の審判」という。キリストが再び来臨して、天国で永遠の命をあずかる者と地獄へ堕ちて永遠の苦しみを課される者を振り分けるのである。西洋の人々にとっては、希望の証であると同時に恐怖の源でもあった。本書は、このキリスト教の重要主題をわかりやすく解説する。死後の世界はどうイメージされたか。罪は誰が裁き、どんな罰が与えられたか。多くの図版とともに読み解く。
中世において最も権威のあったカノン法の書はグラティアヌス教令集。
ここにこういう記述がある。
「正しく裁く者は皆、その手に天秤を携えていてその各々のさらには正義と慈しみが載っている…すなわち罪人への判決は正義によって与えられ処罰は慈しみによって和らげられる」
正義の天秤は最後の審判の像において大天使ミカエルが死者の魂を天国と地獄に振り分ける大きな天秤となって現れている。正義と慈悲はキリストの口元に剣と百合の花が描かれることによって象徴されることもある。
なお、 ミゼリコルディアというラテン語がある。これは慈悲(慈しみ)、という意味だが…死刑執行人が相手にとどめの一発を指す短剣の意味もある。それが慈悲だというね…
ちなみに中世キリスト教において、マリアによって慈しみが象徴されるようになった。 つまり神の側は厳格に悪人を裁くが、それを聖母マリアがとりなして甘やかしてくれる的な(笑)
新約の外典に「処女マリアの黙示録」というのがあり、マリアが黄泉の国ハデスに降りて行くと、多くの魂が苦しんでいる。それを目の当たりにしたマリアは、ミカエルにとりなしを頼む。
すると天から声が聞こえてくる「どうして恵みを授けることができようか。…彼らの行いにふさわしい報いを受けているのだ」、
そこにマリアが「敬虔なキリスト教徒たちのために私はあなたに憐れみを乞うているのです」
一方で風刺文学の名作である1949年の「阿呆船」 において、正義は目隠しされた姿で登場する 。
『法の心得何もない めくらめっぽう手探りで 何かと言うと人集め 裁判したがる人がいる‥‥』
もともとキリスト教美術において目隠しというモチーフはユダヤ教のシナゴーグを表す、女性の像に与えられてきた特徴。
キリスト教から見たらユダヤ教の律法は古い契約、即ち人を覆っているものである。キリスト教によってその覆いが外される…というわけ…。
もともとそういう反ユダヤ的ニュアンスがあるのが「目隠しされた人」だった。
しかしこれがある時から大変興味深い逆転が起こる。
単純に否定的な意味だった目隠しが、先入観を持たない見た目に惑わされない、そういう肯定的な意味になっていたのだ
その早い例は1531年の「ヴォルムス刑事法典」。
「正義」の右下と左下にはそれぞれ王冠をかぶった王様と裸足で服も擦り切れた貧しい農夫が控えている 。
つまりこのみための明らかな差でも正義はそれをあえて見ずに先入観を持たずに公平に裁くのだ…という意味になっている。これはヨーロッパの北方において比較的早く受け入れられていった。
そしてこのような正義の目隠しか今では世界各地の裁判所などにも飾られ公正な審判のシンボルとして生き続けているのである。