3月10日、NHKのBSプレミアムで放送された。ここでは数回告知したが、それで知って見てくれた人が少しでもいたら幸いだ。
実は最高の「視聴煽り」として、この傑作映画評論本を紹介したかったのだが…再読もしたのだが、怠惰につき放送には間に合わなかった。
仕方がないので感想として、この本で知ったあれこれを箇条書きする。
20世紀に最も愛された男チャップリンと最も憎まれた男ヒトラーは、わずか4日違いで生まれ、同じちょび髭がシンボルとなった。二人の才能、それぞれが背負う歴史・思想は、巨大なうねりとなって激突する。知られざる資料を駆使し、映画『独裁者』をめぐるメディア戦争の実相、現代に連なるメディア社会の課題を、スリリングに描き出す。
- 作者:大野 裕之
- 発売日: 2015/06/26
- メディア: 単行本
以下、「チャップリンとヒトラー」備忘メモ
・チャップリンの独裁者は、元々 チャップリンがヒトラーではなくナポレオンに並々ならぬ興味を持ちそれを映画化しようと思ったことが源流だと言う。
・だがナポレオンに対してはチャップリンは悪意ではなく興味や共感を持っていた。
ナポレオンの墓を訪問したチャップにはこういう言葉を残している。「この大理石の棺の中に、かつて生を受けた中で最も劇的な魂が横たわっている」「私は純然たるドラマといえばまずナポレオンのことが頭に浮かんでくる」「グレイの悲歌の一節が思い出された。~『光栄の道はただこの墓に』」
・山高帽やステッキと言ったキャラクターからの脱却を模索していたことも理由の一つ。ナポレオンに扮する写真も残っている。
・このナポレオン映画の構想の中で、ナポレオンがコルシカ島に住むそっくりさんを身代わりにして島から脱出身分を隠してフランス市の教師の職を得る…というアイデアが出された
・ただ色々あってこの企画が立ち消えになったあと1937年に、あるプロデューサーがヒトラーをテーマにした映画を提案。チャップリンは当初はあまり重視していなかったが突然閃く…「一人二役だ」!と。ヒトラーの時はでたらめドイツ語などの喋りギャグを存分に見せる。浮浪者の時は従来のパントマイム。つまりサイレント映画からトーキーへの橋渡しをイメージしたのだった。
・チャップリンの兄でやはり一角の役者だったシドニーも以前に権力者と庶民の入れ違いを描く「キング、クイーン、ジョーカー」という映画を監督主演しており、これが原型の一つである。
・チャップリンの映画の作り方はどんどん細切れのアイデアやギャグ、ストーリーの概略を語りそれをタイプライターで書留させ、そこから徐々に肉付けをしていく手法だ。そういう記録には多くの残念ながら使われなかったボツネタが眠っている。
・製作中は様々な懸念が周囲から示された。ドイツイタリア日本などでは上映できないから経済的に失敗する、外交問題になる、など。実際にドイツはアメリカにも上映する国にも必要な抗議を行った。イギリス当局も制作を止めさせるよう促す圧力を加えたりしている。
抗議する手紙もあった 。
画像で引用しよう。
・撮影が始まったのは1939年9月9日。
その8日前ーーー9月1日、ナチスドイツはポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まっていた。
・ヒンケルの制服を来た時チャップリンは凶悪な独裁者になりきり、態度も冷酷でぶっきらぼう、自分の車を遮られたことに対して汚い言葉で罵るなどし、自分でも驚いたという。ヒトラーの資料映像はたくさん見ており、レニリーフェンシュタールの「意志の勝利」も見たことがあると言う。チャップリンのこんな言葉が残っている「彼はキ***だよ、私は喜劇役者だ。しかしその反対になっていたのかもしれないのだよ」
・自分が個人的に一番好きな、この映画の場面はムッソリーニを模した 同盟国の独裁者 ナパロ―ニと、表面的には友情示しながら相互に子供っぽい虚栄心をむき出しにしている場面だが、ナパロ―ニは当時の有名コメディアンのジャックオーキーが演じた。
ある種の演技合戦になったが、その一方で演出家としての目もおろそかにしなかった。前述した兄が「あのシーンは全部相手のものになっちゃったな」と評論すると「知ってるよ、僕がそう書いたんだから」。オーキーも「自分の今までのキャリアより、チャップリンと共にいた数週間の方が演技について学ぶことが多かった」と回想している。
・この撮影の間は、ナチスドイツの破竹の進撃期間と重なる。風向きは変わり反ナチスプロパガンダの「独裁者」を一刻も早く公開してくれ、と手のひらを返す向きあり。一方で妨害や脅迫も相変わらず続いていた。
・有名な演説のラストシーンは難航した。これはチャップリンが 推敲を重ねたためである。ボツシーンでは床屋の平和演説で兵士たちが武器を捨て踊るシーンなどがあったと言う。
・暗殺者が、この演説を狙っているというアイデアもあった。
・またこれが夢オチで看守に「起きろユダヤ人、ここをどこだと思っているんだ!」というラストの案もあった。
・「ヒンケル。彼だって正しいことをしたいのだ。彼はただ憎しみと辛さでいっぱいだった」と独裁者を許す言葉のアイデアもあった。
・そんな未完成アイデアでは、訪れたこともある日本も俎上に上がっている。中国の都市を爆撃する日本の戦闘機のシーンが描かれ
「中国にいるあなた!あなたは残酷な人ではない!子供達を爆撃することが好きではないのだ!誇り高いあなたは無防備な人々を殺すことなんてできないのだ!」と床屋が呼びかける。同じように、当時大きな内戦があったスペインへの呼びかけも行われていた「あなたたちは復讐などしたくない!流血は十分に見た!兄弟同士の戦いはもうたくさんだ!」
・こんな呼びかけによって兵士たちが銃を置いてダンスする、と。これらの戦闘機や,ダンスのシーンは実際に撮影された。
・これらほとんどの撮影が1940年3月に終わった後、演説シーンは改めて別に撮影する予定で、編集と演説の再検討に取り掛かるチャップリン。
・だが同年5月10日、ナチスドイツは西部戦線を総攻撃し、破竹の進撃によってついにパリを占領する。ちなみに不可侵条約を結んでいたソ連で今回のチャップリン映画の上映禁止を決定した。演説シーンの準備は長引き 、世間では「独裁者」 の企画自体が頓挫したのではないか、とか戦争の状況に備えて複数のラストシーンを作っているのではないか、と憶測される。
・6月23日。チャップリンはついに演説シーンの撮影に向けて再起動するが…ヒトラーは征服者としてパリの地を踏み、チャップリンと同じようにナポレオンの棺の前に佇んだ。
・翌24日、ついにチャップリンはあの有名な演説の撮影を行う。
おびただしいメモが残っているが、撮影の時に実際に語られた言葉と同じ原稿は一つも残っていないと言う。
訳文は多々あるが、適当にリンクを貼ろう
logmi.jpgreat dictator speech charlie chaplin - YouTube
・総じて、完成版は途中のアイデアと比べると「具体的な時間、事件などへの言及を避け抽象的にしている」「演説を受けた周囲の反応シーンを極力減らし、想像力にゆだねるとともに、『観客の貴方に向けた演説』としている」。
・映画の演説については当時の費用は賛否両論だった。いや、今でもそうである。メッセージの是非も議論の俎上に上がることがあるがそれ以上に「演説内容は素晴らしい、だがそれによって喜劇映画としてのスタイル、完成度は崩れているのではないか」 というなかなか簡単には否定できない指摘もある。
・第二次世界大戦に対して、ドイツ移民の影響などもあり微妙な立ち位置だった中南米ではこの映画の公開をめぐって、様々な外交戦争や大衆の抗議行動 (両側から)もう怒っている。上映禁止のところも、それを無視して上映されたところもある。アイルランドでは禁止されたと言う。結局世界中で3000万人が見た。日本では当然上映されなかった。皮肉なことに戦地でフィルムを押収して試写会があったという話もある。作家の高見順はインドネシアでこれを見て「ひどく後味の悪い映画」、と批判しているが戦後はまるで正反対の文章を書いている…
・ルーズベルトは意外やこの映画に冷淡だったそうだ。
・ヒトラーはこの映画を見たのか?と言う検証もあるが、あまりに面白いテーマ何で真偽入り乱れよく分からんらしい。ナチスドイツの帝国フィルムアーカイブにおける「扇動映画」カテゴリーで持ち出し禁止の最高位ランク6となっていたが、それでも1944年8月15日に外部に持ち出され上映会が開かれた記録が存在する。ゲッペルスが私的にこのフィルムを保管した、との噂話まで…ナチス党資料室にもチャップリンのインタビュー記事の翻訳が残されていたと。
・最後に著者の大野裕之氏は2003年にチャップリンの新しい DVD全集が出た時、 これまでの翻訳に対して変更を申し入れたというエピソードを記す。
映画のネタバレを気にせず語るが、そもそも床屋がラストで演説するのは、独裁者貧血とそっくりだった故に、逃亡中の彼が取り違えられて壇上に上がるわけだ。(本物の独裁者ヒンケルは、その逃亡している床屋と間違えられて逆に逮捕、収容所に送られている)
この時そんな形で演説することを「無理です」という床屋に対し、一緒に逃亡している元将校のシュルツが、まずは喋らないとこの場を脱出できないぞ、と演説するよう促す。
その時のシーンをこれまでの翻訳では状況から「他に助かる道はない」と訳していたが、大野は原文に忠実に「それが私たちのただ一つの希望だ」と訳したのだという。この場合の「希望」とは、その場から2人が脱出する、という意味だけではない…(了)