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【メモ】ロマンを超えた「水軍」「海賊」の真実とは―「水軍と海賊の戦国史」読書メモ

水軍についての研究書として非常に有名かつ評価の高い本なので今回読んだ内容をシェアします.。

「水軍」や「海賊」は本当に消えたのか―。戦国期の徒花のように語られることも多い水軍や海賊は、中近世を通じ、列島全域で重要な役割を担った海上勢力だった。史実を俯瞰的に論ずることで、その存在の本質を描き出す。

ちょうどモーニング連載「ミツナリズム」で、このへんのことをやっていたね

ミツナリズム戦国時代の水軍

・と言ってもロマンをかきたてるというよりは,
一般的に流布しているロマンチックな俗説を否定している部分が多いことは認めざるを得ない.
なお、ロマン一杯の戦国海賊物語としては、司馬遼太郎が「関ヶ原」のなかで書いた九鬼一族の挿話をみてほしい。こちらで引用している。
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・冒頭から「水軍や海賊の定義」という身も蓋もない事をやり始めるんだが、「戦国時代の水軍に特徴を見出そうとする場合は領域権力が編成の主体となっていたことが挙げられる」
これはね…
川原正敏の「海皇紀」などが典型だけど、陸上は王侯貴族の権力ががっちりと支配体制を作っているが海はそこから自由な場所である。その自由を実力で担保するのが海賊だ…みたいなイメージがあるじゃないですか…。それは諸外国だとそういうこともあるのかもしれないけど結局日本では領域権力が水軍の基盤であると言うね 。


・そもそもで言うと用語として…
「戦国時代において水軍という文面を一次資料で確認することはできない。つまり水軍という言葉は、学術用語・概念用語として捉えるべきである」
えっ??海軍という近代的な用語に対応して歴史性のある水軍という言葉があったんじゃなかったの??と。



・ちなみに海賊衆と言う言葉はあったらしいんだがこのことは関東や東海が中心で日本全域に広がってはいないようだ。本当の海賊の本場(かどうかも検討されているのだが)である瀬戸内海では「警固衆」「船手」 といった、あんまりロマンがない言葉が使われていたそうです。ただこれも一転して面白いのは、元々南北朝期には一般的な意味の海賊という言葉が使われていたが、足利将軍家勘合貿易をすすめる時に、明の船を警護する役割をこの種の海上武装勢力に担わせたために「警護衆」が 「海賊」にとって変わったんだそうな。


・海賊の本場は瀬戸内か、という話だがそれは元をたどると事実。
しかし、徒手空拳で伊勢新九郎が奔って(笑)関東王国を築いた北条家や、海なし県から不凍港(当たり前だけど)を目指して南下し、まんまと駿河を勢力圏に置いた武田家などは、なんと西日本‥伊勢や紀州から海賊を招聘し、地元海賊以上に重用されるようになったのだという。 特定の軍事技術に長けた集団がスカウトによって1軍丸ごと「領域権力」に召し抱えられるとしたらそれはちょっとロマンぽい。
金掘りの職人衆たちが工兵軍団として戦う「ムカデ戦旗」を思い出しはしまいか。


・ただしそのような形で領域権力=大名家の臣下になった海賊たちは自律性を失い 、大名家の歯車、機関としての意味しかなくなってくる。伊勢志摩九鬼水軍が織田信長に見出されしま海賊を束ねる立場に引き立てられたのも、それに近くなる。


・実は江戸湾において、関東の巨大帝国北条氏と、千葉県の先っぽしか支配していないくせに(笑)独立不羈の構えを終始崩さなかった里見家の「江戸湾海戦」は非常に長く続いたらしい。両方の軍が対岸襲撃を繰り返すので、それらの村は北条家里見家両方に年貢を納めて中立的な形で襲撃を逃れる「半手」と呼ばれる慣習が認められたそうだから、里見家もなかなかやる。ゲーム「信長の野望」では、北条に出口を塞がれて絶対に天下を統一できない無理ゲー勢力だけどね(笑)


・当時の戦法では、 やはり西洋的な船に大砲を積むという方向には発達せず、弓矢や鉄砲焙烙玉 などが活躍した。大砲は一船に3門程度。兵力をたくさん予想する安宅船、看板の上に櫓を設置し高いところからの攻撃…高所の優位性を持とうとした船なども生まれた。
船体に鉄板装甲をつけた「黒船」も戦国時代にはよく見られた。


・秀吉の時代は 、毛利水軍と対峙するために独自の水軍運用もしていた秀吉は小西行長などを通じて海上勢力を整備しており、伝統的な海賊大名も服属させた。
大阪城には親衛隊としての 水軍も配備されていたという。


・ただこの辺から、身も蓋もなく言えば「海軍は金がかかる」ため、伝統的な海賊のノウハウを持っているなんとか水軍が強いというよりも、大大名が金をかけて船を作ったところが強くなる、というまさにロマンのない状態になってきたらしい。



・ちなみに豊臣秀吉は権力の絶頂期に、渡海上陸作戦を大水軍によって実現し、朝鮮半島で何度も海戦を行うこととなる。
この時の戦いというのを小川氏は「日本水軍は朝鮮水軍の攻勢に圧倒され釜山に侵攻されたこともあったがやがて沿岸城郭との連携によって朝鮮水軍の活動を抑制することに成功した…」と評している。


・この本では小説「村上水軍の娘」 や「信長の忍び」でも書かれた織田水軍対毛利水軍にも触れられている。確かに戦争全体では織田は毛利をジワジワと圧迫していったがこと海上戦闘においては、やはり毛利水軍を壊滅させるには至らなかったとか。


・あまり触れられていない徳川水軍という勢力もなかなかに侮れず、小牧長久手の戦いでは隠れた活躍を見せていたとか。
この辺の戦いが徐々に「大きな大名の経済力があれば結局、独立海賊勢力を上回ることができる」という現象を呼び寄せたのだった 。


豊臣秀吉は瀬戸内海を支配すると「海賊停止令」 と呼ばれる略奪行為の禁止を命じ、ますます独立勢力としての海賊は肩身が狭くなって行く。
ただ小川氏は「これは水軍の弱体化を意味する状況ではなくむしろ統一政権、諸大名が海上勢力を使役して、より規模の大きい水軍を整備することを可能とする前提となった」としている 。

ミツナリズム戦国時代の水軍

朝鮮の役と、海戦の経緯について

・ 日本軍は1592年4月から始まった戦闘で即座に現在のソウルまで陥落させたが、5月以降に全羅道の朝鮮水軍が釜山まで攻め寄せる反撃を許した。輸送船が主体の日本船団が狙われたともいわれるが 資料を見るとそうともいえない。朝鮮水軍と日本水軍には海上戦闘の力量差があったとみるべきだろう。


・朝鮮の役では抗日戦争の三大勝利というのが言われる。海戦の閑山島戦闘、幸州山合戦、稷山合戦だそうである。


・秀吉はこの事態に対処策を命じる。1:兵力を集中すること。2:海上戦闘自体は回避すること 。そこから日本軍は釜山周辺を固めて、釜山・対馬ルートを確実に保存する戦略をとった。これは効果を上げ、朝鮮水軍は極めて大きい打撃を被った。西の熊川という地域でも、陸上の陣地と水軍が共同して敵を迎え撃つ方式を取り戦果を挙げたという


・船に置かれた火器の水準では、朝鮮水軍の方がやや上回っていたが、そう大きな差ではなかったらしい。 むしろ船のサイズの大きさが意味を持った。ただし火器、大型船となるとますます経済力そのものが重要になり、伝統的海賊主は影が薄い存在となっていったという 。


・朝鮮水軍が明確に日本に優位に立っていた時期は文禄の役系の前半に限定されると言っていい。陸上部隊との連携がうまくいかず日本の釜山の防衛拠点を突破できなかったことが大きかった。慶長の役では緒戦の巨済島の戦いで朝鮮水軍が壊滅的な打撃を被り、その結果明水軍と日本水軍の対決が多くなったという 。


・朝鮮水軍の艦船については亀甲船がよく知られているがその実態は不分明である。むしろ朝鮮水軍の主力は「板屋船」であった。船の上部に板の屋根と櫓を設けた船である。大型の船体に多数の火器を搭載した上でやぐらを式場として高所から周囲を見渡し有効な運用をする。





・徳川家が天下を握ると、船手頭と呼ばれる役職が作られたが、大船を禁止し接収するなど 徐々に日本全体の海軍力を縮小していく。伝統的な海賊大名が内陸に転封されることもあった。これは必ずしも懲罰や警戒心だけでなく、単純に加増されたということもある。


・それでも江戸初期は対外的な緊張感などもあり、水軍が単純に減らされたわけではなかった。ただし1680年代から、緩やかにその路線は縮小される。中国大陸で清国が台湾の鄭成功一族を服属させたこと、スペインやポルトガルの勢力が衰退したこと。そして徳川綱吉が「仁政」を打ち出し、維持費がべらぼうにかかる軍船の更新をストップさせ 幕府直轄水軍をリストラしたことが重なったからである。
そこからペリー来航まで日本の海上武装勢力は一時のまどろみを楽しむのであった。


(了)