この話のつづきします。
ただ、最初に書いておくけど、以下のことは「なんか、そういうデータあるんですか?」と言われたら、ない。
印象論です。感想です。
「経済を回す」という表現に騙されてはいけない。これまで公には殆ど使われることのなかった表現ではないか。「日本語大シソーラス」や各種国語辞典を見ても、用例は一つもない。「経済」とはもともと「経国済民」、つまり「国を治め人々の生活苦を救うという意味である。「回す」ものではない。
— Mitsuyoshi Numano (@MitsuNumano) 2020年7月26日
という話から「たしかに自分もそう思っていた」ということで、主要な参考サイトを検索などしてみたが、その後唐突に思い出したのだった。
その時に思い出していればひとつの記事にまとめられたのだが…
まだ、本当に震災が来てから20日も経過していないという時に、当時、だれもが認める日本最高のコラムニストであった読売新聞の「編集手帳」子が、その当時、石原慎太郎も参戦した「こんな時期に花見をするのは不謹慎ではないか(※というだけでなく、電力消費や警備人員の問題などがあって単純には言えないのだが)」という話に、こう書いたのだった。
3月25日付 編集手帳
大正期の詩人、山村暮鳥に『桜』と題する詩がある。〈さくらだといふ/春だといふ/一寸、お待ち/どこかに/泣いてる人もあらうに〉
(中略)
◆人を悼む心が花にもあるのか、今年はサクラの開花は遅めというが、それでも四国や九州から、ぽつりぽつりと花便りの届く季節を迎えた◆花に浮かれる心をたしなめて「泣いてる人」を思いやった暮鳥の優しさにうなずきつつ、だが――とも思う。生き残った者の誰かしらが、生かされてある者の誰かが世の中の歯車を動かしていかねばならない。音は小さくとも、季節の催事も“ガッタン”と刻む歯車の一つだろう◆この春、多くの人が愛でるのは、花ではなく、酒でもご馳走でもなく、生きてある身のありがたさに違いない。宴の筵(むしろ)で、そういう供養もある。
読売新聞朝刊一面コラム - 編集手帳 - 第二十集 (中公新書ラクレ)
- 作者:竹内 政明
- 発売日: 2011/08/10
- メディア: 新書
「世の中の歯車を動かす」というのと、「経済を回す」は、言い方は違うし、意味もそのままで100%同じではないが、通底はしているはずだ。
再度国会議事録のなかで、「経済を回す」という言葉が出てくる頻度を見てみよう。・
(古い順に下から上)
4 第196回国会 衆議院 総務委員会 第2号 平成30年2月20日
該当箇所を展開(全1箇所)
5 第192回国会 参議院 財政金融委員会 第4号 平成28年11月17日
該当箇所を展開(全1箇所)
6 第192回国会 参議院 本会議 第3号 平成28年9月29日
該当箇所を展開(全1箇所)
7 第189回国会 衆議院 総務委員会 第1号 平成27年1月30日
該当箇所を展開(全1箇所)
8 第185回国会 衆議院 厚生労働委員会 第8号 平成25年11月20日 こ
9 第179回国会 参議院 財政金融委員会 第4号 平成23年11月29日
該当箇所を展開(全1箇所)
10 第177回国会 参議院 経済産業委員会、農林水産委員会、環境委員会連合審査会 第1号 平成23年8月25日<東日本大震災発生>
11 第174回国会 参議院 国土交通委員会 第3号 平成22年3月19日
該当箇所を展開(全2箇所)
12 第169回国会 衆議院 財務金融委員会 第17号 平成20年4月25日13 第75回国会 衆議院 地方行政委員会 第32号 昭和50年7月4日
加速しているようにも見えるのだが、これはちょっと仮説に引きずられた見方か。
ただ、さらにいえば、個人的な印象論、個人的な記憶としても、東日本大震災後の娯楽やイベントなど、いわゆる「不要不急」のことをすること(当時は「電力を余計に消費する」という意味でもあったわけだから、余計に意味が大きい)の肯定の材料として「それで経済を回す」という”概念”が頻繁に使われるようになった…、という記憶がかすかにある。
みなさんは、いかがでしょう?
ちょうどいま、石原慎太郎がひさびさに話題になっているが、
当時も議論を呼んだ「東日本大震災は天譴」「日本人の我欲への罰」的な仏教の我流解釈による暴言と、今回の騒動も繋がっている気がする。
業病のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で「殺害」容疑で起訴された。武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい。
— 石原 慎太郎 (@i_shintaro) 2020年7月27日
それへのブクマ
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