INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

危険な医療現場の方を外部から「応援」するということ〜「我ら皆、トリューニヒトか レベロなり」

togetter.com



これには当然、多くのブクマがついた。
b.hatena.ne.jp
自分がコメントした内容はこれ

気持ち分かるが、例えばピカソゲルニカ」でも何でも、反戦の願いと「凄い創作物を作りたい!」な情熱・野心は不即不離だろうし、だからこそ作れる。/安全圏云々は「お前が行け論」…また銀英伝ジェシカの話する?


あとでその議論は語るとして、別の方のブクマでああ、と思ったのを紹介したい

id:aneet 先の大戦で戦地の兵隊さんをねぎらう歌を聞いた最前線の兵士が、この歌を作ったやつをぶち〇してやりたいって言うエピソードが山本七平の著書にあったな。

ありました。原文を孫引きで紹介しよう(一部誤字修正)

……2門の砲車を人力で引きつつ、のろのろと進んで行った。歩兵は足が速いのでズンズン行ってしまう。
気ばかりあせるが、人力に限界がある。青空がかすかに見える場所で小休止をした。
そのとき、ある兵士が、まったく無意識に、あるメロディーを口ずさんだ。
それは当時誰でも知っている国民歌謡で、歌詞は
「父よ、あなたは強かった/兜をこがす炎熱を/敵の屍と共に寝て/泥水すすり、草を食み・・・・・・」

「父よあなたは強かった」

であった。
兵士の労苦を歌った歌である。
このメロディーは誰の頭にも入っていたからその兵士は、何かを歌っているという意識もなかったはずである。
ところが別の兵士が、全く不意に「ヤメロッ」と大声で、血相を変えて怒鳴った。


瞬間すべての人間にその気持ちがわかる。
一同がちょっとシーンとしたとき、その兵士は呟くように言った。
「こんな歌を作った奴はタタキ殺してやりたい」と。
この作詞家が、この言葉を聞いたら、非情に驚かれると思う。
彼は、苦労する兵士の側に経ち、本心から強い共感と同情を込めてこの歌を作ったはずである。
だがそれが兵士を怒らせ、逆に「タタキ殺してやりたい」とまで言われるのである。
なぜか。

一言にして言えば、歌にされたことが耐えられないのである。
そしていわゆる知識人という人は、今でもこの事がわからないらしい。
(略)
・・・・・・・・・われわれは今、文字通り「屍と共に寝て/泥水すすり、草を食み」している。
その現実の中にいるのは人間には、それを歌にして歌われていることが耐えられない。
そこで「こんな歌を作った奴はタタキ殺してやりたい」という言葉が出てくるのである。
ここに「戦場は殺される場である者」と「戦場は殺される場だと『口にする』者」との、決定的な差がある。
そして、こういう言葉を口にするのが商売の人、苦労している本人よりもその苦労がわかっているかの如くに口にし、人の苦しみを正義・人道という包装紙で包んで売っている人たちには、この差が絶対にわからない。
たとえどんな仮面をつけようと、それがどれほど野蛮で冷酷なものかは、最後までわからないだけでなく、兵士はそれを見抜いているのだということさえ気付かない。・・・・・・
兵士は一種の嗅覚で、「軍人よりも軍人的な民間人」を嗅ぎ分ける。
兵士はたいていの苦労はわすれる。
昨日の苦労は覚えていても、一昨日の苦労は忘れている。第一、そうでなければ気が狂ってしまう。
底で戦争が終わって収容所に入れられれば、戦場の苦しみは忘れているのだが、この人間、自分たちの死体を踏み台にして、成績を上げようとしたり、エエカッコしたり、上官にゴマをすったりした人間だけは、
絶対に忘れない…

blog.goo.ne.jp

当事者がそう思うのは、しかたない。
しかし、それだけでは済まない、という話になる。ここから先は、我ながら繰り返しに過ぎるのだが、言うことを変えても仕方ないし、初めてご覧になるかたも多いのだから繰り返そう。

危険なのは我々。お前らは安全なところから「応援」だけしやがって…は戦場の兵士だけでない。災害現場や、医療現場の当事者もそう思って当然なのだ(であっても、だから応援者が全員行けるわけでもない)

全体のリンク集
m-dojo.hatenadiary.com


この問題で「災害」に着目した話を、何度か書いている。2015年、ネパール大地震自衛隊が救援に出向いた時の記事。

【「お前が行け」論まとめ】ネパール余震で再論…「現地を救援せよ」と机上で言う我々は、大なり小なり「災害版トリューニヒト」(銀英伝)なのだ、と自認しよう。
m-dojo.hatenadiary.com


略)…妥当であってもなくても…今回のネパール救援隊や、過去の救援活動に自ら参加した(している)、あるいは肉親が行った、行かせたという人間はもちろん例外として除外するとして、
それ以外で「もっと迅速に救援隊を送れ」「もっと大規模な救援活動をしろ」と言っている方は、こういわれることを免れない、ということです(再確認)

あるいは、これでもいい。「総理」を、あなたの名前に、「前線」を「被災地」に変えてみよう。

「(危険地域での)災害救援」だと、構図は同じなのにあっさり盲点になるんだよなぁ。

ジェシカ論法、あるいは「ジェシカ・百田論法」と私は呼んでいるが(理由はググれ)、ここのキモは「戦争」や「軍隊」だけじゃなくて「政策として、自分でなく他人に対して危険、リスクを負わせる」ということだからね。相手が余震や噴火などの自然災害なら「死んで帰れと励まされ」とはならない…はずだが、そのシチュだとスタンスがあっさり変わるということも多い。
てか、銀英伝ジェシカの台詞を書いた作者ですら、別作品(創竜伝)では、実際に日本人の開発支援者が、現地でテロリストに殺されるという悲劇を前に「そういうところに行く日本人こそ、まさに誉れだ。素晴らしいことだ(ひるまずやるべきだ)」という意味のことを論じていました。

堂兄弟の年代では想像するのもむずかしいが、日本にも貧しい時代があったのだ。外国からの援助を必要とした時代。国内によい職場がなく、人々が外国へ出稼ぎに行った時代。二〇世紀末の日本人に、「南アメリカのペルーとはどんな国か」と問えば、「左翼ゲリラが跳梁し、日本人技術者を殺す、おそろしくて貧しい国」という答えが返るだろう。だが第二次大戦の直後には、そのペルーが日本に食糧援助をしてくれて、おかげで何万人もの人たちが餓死から救われたのだ。今度は日本が多くの国に力を貸し、自立を助ける立場になった。けっこうなことだ。できるだけのことをさせていただこうではないか。そう祖父の司は始に語ったことがある。

「タナウツ」革命軍に旗揚げ直後から銃を持って参加した古参兵(現在は満期(ネタ切れ)除隊)である小生がその矛盾をパロディにしたこれは、今でも自分のお気に入りの一本です。

ヨシ=タナーニヒトの演説
http://www.tanautsu.net/kousatsu01_20.html

「お集まりの市民諸君、ボランティア諸君!今日、我々がこの場にはせ参じた目的は何か。ペルーにおいて散華した農業指導の人々の英霊を慰めるためである。彼らは貴い命を発展途上国の福利向上を進めんがためにささげたのだ。
貴い生命と、いま私は言った。まことに生命は貴ぶべきものである。しかし、諸君、彼らが散華したのは個人の生命よりもさらに貴重なものが存在するということを、後に残された吾々に教えるためなのだ。それは何か。すなわち国際人道援助である!
彼らの死は美しい。小我を殺して大義に殉じたからこそだ…(後略)

(略)

もう一回だけ、結論を…2段階に分けていう。
【第一段階】
・たとえばこれだけ余震が続く、危険なネパールに「大規模な救援隊を派遣せよ」と主張する、そう主張する人は、その救援隊所属者・経験者・彼らが身内にいる人…を除いて、本質的には「自分はいかずに人を危険な場所に送る”トリューニヒト”(銀英伝)」である。
【第二段階】
・しかし、それはしょうがない。逆に、災害救援をするべきだ、と考えているのに「自分がその危険地域で活動できるわけでもないのに…」と、政治家なり有権者なりがそれを呑み込んでしまうなら、そちらのほうが民主政治にとって問題である。



と、思う次第です。
あと、今付け加える蛇足のひとこと。
「自分は危険地に行った経験がある、危険地域で援助活動をしたことがある」という基準で語るなら、国会部門では”ヒゲの隊長”佐藤正久に、作家部門では曽野綾子に、大方の同業者、あるいは一般市民はかなわない」


あ、タイトルでうたったレベロとは、我ながらしつこく「銀英伝」の人。
自己犠牲は美辞麗句で、自分の野心と保身を最優先にし、そのことを自覚しているトリューニヒトに対し、一貫して良心的な政治家だったが、それでも立場上、理不尽な形での犠牲を他人に強いようとして批判される、という重要な造形の人物です。

レベロ:言いづらい事だが、国家の存亡は一個人の権利というレベルで語りうるものではない。
シェーンコップ:一個人の人権を守る為に国家の総力をあげるのが、民主国というものでしょう、ましてや、ヤン・ウェンリーがあなた達のために貢献してきた過去を思ってもご覧なさい!
レベロ:私の心が痛みを覚えないとでも思っているのか!非道は承知している!承知の上で私は国家の生存を採らざるを得んのだ!
シェーンコップ:なるほど、あなたは良心的でいられる範囲では良心的な政治家らしい。だが結局のところ、あなたがた権力者はいつでも切り捨てる側に立つ!手足を切り取るのは確かに痛いでしょう、ですが、切り捨てられた手足からみれば、結局のところどんな涙も自己陶酔に過ぎませんよ、自分は国のために私情を殺して筋を通した、自分はなんと可哀相で、しかも立派な男なんだ、という訳ですな!泣いて馬燭を切るか。ふん!自分が犠牲にならずに済むなら、いくらでもうれし涙が出ようってものでしょうな!
blog.livedoor.jp


この前書いた、「教訓Ⅰ」を医療従事者が実践したら?…という話

……今回の事態では、ぶっちゃけ「医療従事者」や「コロナ防疫のための業務に広く携わっている人」にむしろ該当するのだ、本来的には(笑)
で、本当にそういう人が 「いのちはひとつ、人生は一回だ」といって「青くなって逃げ出し」「隠れた」ら……、という話になる。

m-dojo.hatenadiary.com

どんな反戦や追悼や応援のアートでも「巧く創りたい」と思わなければ、感動的なものはつくれまい。

李白が、自分の友人である阿倍仲麻呂は帰国の途中に遭難して死んだ…と聞いたとき、
追悼の七言絶句『哭晁卿衡』を詠んだ。(※実際には九死に一生を得て唐に戻ったのは周知のとおり。)

日本晁卿辞帝都
征帆一片繞蓬壷
明月不帰沈碧海
白雲愁色満蒼梧

日本語訳:日本の友人晁衡は帝都長安を去り、船の帆をはためかせて日本へ向かった。しかし明月のように高潔な晁衡は青々とした海の底に沈み、憂いを帯びた白雲が、蒼梧の海を覆う。
taishu.jp

まだ小さいころ、この漢詩を聞いたとき、美しいと思いつつも、「本当に悲しかったら、こう韻を踏もうとか、この言葉よりこっちがしっくりくるよな、とか頭が回らないんじゃない?ひたすら悲しくて、声にならない声を挙げて大泣きするんじゃない?」と、そんなトテモ単純なことを思ったものでした。

そしてピカソゲルニカ」。

f:id:gryphon:20200419093449j:plain
ピカソゲルニカ
www.youtube.com

www.youtube.com


字面が似てるので、いま連想しちゃった「パブリカ」(笑)
そして「花は咲く」。

<NHK>2020応援ソング「パプリカ」世界観ミュージックビデオ

リオの感動再来!総勢55人で歌った あの日、そして明日へ『花は咲く~リオデジャネイロ メダリストバージョン~』



「スポーツ界の応援メッセージ」はどうだろう

id:rag_en なおスポーツ界 https://www.fnn.jp/articles/-/33780

新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、最前線で闘う医療従事者にむけて感謝を伝えようとする動きは、いま世界各地に広がっている。

日本のスポーツ界でも、あるJリーガーがインスタグラムを立ち上げ、医療従事者への感謝のメッセージとエールを送り始めた。

そしてわずか数日間で、ラグビーやボクシング界にも賛同の輪が広がっている。

#医療従事者は私たちのヒーロー@thanksmedicalworkers」というメッセージと、背を向け左手を高々と挙げるスポーツ界のヒーローたち。

医療従事者に感謝のメッセージを込めたインスタグラムを立ち上げたのは、浦和レッズのMF長澤和輝選手をはじめとする5人のプロサッカー選手たちだ。

医療機関で働く医療従事者の方とそのご家族が、偏見や差別があったり大変な思いをしているので、選手から何か発信できないかと友人から相談されて」

自身も医療従事者に対して何か出来ないかという思いがあった長澤さんは、早速チームの選手たちと、どのような方法で感謝のメッセージを伝えたらいいか話し合った。
(略)

集まった5人はまず、この応援メッセージの目的をあらためて考え、次の3つに決めた。

1)日頃応援してもらっている僕たちスポーツ選手が、率先して応援する側となる

2)サポーターや子どもにとって”ヒーロー”である僕たちが、#医療従事者は私たちのヒーロー”というメッセージを発信することで、医療従事者を少しでも勇気づけ、また差別や偏見を無くす
3)一般の人たちを巻き込み、多くの感謝と応援を医療従事者に届ける

www.fnn.jp

「一斉に拍手」



批判も考察も評論も、もちろんブクマやブログも、当事者がどう受け取るかはわかんねえ話。

gryphon ちなみに、例えばこのブクマ全体を当事者の誰かが「安全圏からブクマだけして『あの人たちはひどい、気持ちはわかるよ』とかいう”批判ポルノ”にしないで」と言い出したら(当方含め)どうなるのでせうか。

と、ここのブクマコメント欄で書きました。
b.hatena.ne.jp



これで一応終わるけど、或る話を追加。自己犠牲を払った経験者の言葉は、そうでないより価値がアリや?

先々週に続き、行ってきた。

f:id:gryphon:20200419155910j:plain
献血について

この前、どこぞで献血が話題になり、どこぞで献血を誇ったりしたりした議論があったけど…そういうのに付き合う気は一切ない。
献血をこれまで、いくつかの回数か可能だったのは幸運にもそれを妨げる病気や手術経験などを避けられ、
採血の場に行ける余裕もあったからで、その幸運に感謝するのみだ。
(多忙などあって、前年は1年ほど空いたし)
そして、その経験が、そう称するのはあまりにもささやかながら「自己犠牲」や「社会的奉仕」の量的な比較考量の材料となり、それによって発言者の主張の正当性が増えたり減ったりする…と思うなら、そう思う人の感情はさまたげませんので、わがささやかなる献血回数の多寡を以て、言説への評価を上下させてください。