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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「レイシズムと闘う手段としてのレイシズム」が存在する―渡辺靖「アメリカン・デモクラシーの逆説」

アメリカン・デモクラシーの逆説 (岩波新書)

アメリカン・デモクラシーの逆説 (岩波新書)

という本を読んだ。現代アメリカ論の新書版はいろいろ読んだけど、それぞれに面白い。
これもハリケーンカトリーナの騒動や、オバマ政権(この本が出たのは2010年です)の話、メガチャーチロビイスト、メディア、世論調査機関、MS-13ギャング‥など、お馴染みの話がいろいろでているが、こういうくだりがあったので記録しておこう。


メタ・レイシズムという皮肉

しかし、忘れてはならないのは、原理主義そのものは何も保守派に限った現象ではないことだ。たとえば、反差別の立場から「差異への承認」や「差異への権利」を求めるリベラル派の多文化主義にしても、それ自体が原理主義化してしまえば、社会的な代表権=表象権を獲得するためのマイノリティの政治―いわゆるアイデンティティ・ポリティクスーを過剰にし、単なる資源獲得競争に矮小化してしまう恐れがある。
有名な例としては、欧米的思考に対するアフリカ的思考の優位や、人類文明の源としてのアフリカ文化を説く「アフリカ中心主義史観」が挙げられる。そうした言説は決して新しいものではないが、白人に対する先天的劣性を信じる黒人も少なくないなか、一九九〇年代以降、黒人としての誇りや自尊心を育む視点として、一部の学校の教育カリキュラムに組み込まれている。
しかし、「アフリカ中心主義史観」は黒人を解放するかもしれないが、逆に、他のマイノリティの「歴史」の抑圧を意味しかねない点において、差別の組み替えにすぎないという批判も根強い。つまり、それはレイシズムと闘う手段としてのレイシズムという「メタ・レイシズム」の温床と化す可能性を秘めているというわけである。多文化主義によって分離主義的傾向が助長され、排他的な単文化主義ないし文化的全体主義が広がるとするならば、それはあまりに皮肉である。


157、158P

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「アフリカ中心史観」は別の抑圧、レイシズムと闘うレイシズムになりかねない 渡辺靖

ちなみに「meta racism」を検索すると、あまり権威もなさそうな、こんなリンクがある
en.wiktionary.org


しかしまあ、そりゃそうだ。「黒人優位思想」グループと言うのは以前から存在し、深刻な問題を発生させたりしていた。

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