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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「真田丸」大坂の陣の人物や場面を、司馬遼太郎「城塞」はどう描いたか?

塙団右衛門

敗軍してもなお ―というより敗軍したればこそ― 後世、日本人たちがこの人物(塙団右衛門)をこよなく愛し続けてゆくのだが、その理由はかれの人柄が日本人としてその長所と短所を濃厚に持っていた典型的人物だったからであろう。
かれは、詩人であった。
日本人に愛されるには、詩人もしくは詩的行動者でなければならない。大坂方の敵である徳川家康の行蔵にはおよそ詩的なものがなかった。それにひきかえて大阪籠城軍諸将の人生と行動はいかにも詩的であり、団右衛門はその中でもきわだっている。

死の美学

この大坂夏ノ陣ぐらいから、死への讃美がはじまるのである。それも勝って死ぬのではなく敗けて死ぬことを壮烈とした。さらには死そのものを飾りあげる精神も、この時代からすでに葦牙(あしかけ)の芽のようにして出かけている。(略)戦国というものを体のなかで知りぬいているはずの男が、壮烈な敗北死という、主家にとって迷惑至極な美のとりこになり、かつそれを誇示しようとしている。武士道の頽廃がすでにこの時代にはじまっているとみていいであろう。

秀頼出馬論

「もしこの一戦で御運が御尽きあそばそうとも、せめて三日でも天下の主となりたまい、洛中の政事をとりおこなわれ候ならば、後代の名聞これにすぎるものあらじ」
(略)幸村はしきりに
「後代の名聞」
ということばをつかった。勝敗がきまってしまっている以上、やるべきことは後世にむかって佳き名を残すことである。(略)牢人諸将の気持は一つであったらしい。かれらはすでにこの戦いで勝敗を度外視していた。自分がどう美しくふるまうかということだけを関心としていた。その仲間に、かれらが推戴している秀頼も入れたかったにちがいない。

後藤又兵衛

「落城にも段取りというものがある」
というのが、後藤又兵衛の私かな説であった。又兵衛はまっさきに死んでもいい。
が、幸村ばかりは最後に死んでもらわねばならない。なぜなら「真田殿は籠城衆の目当て」である以上、いちはやく死んでは一同士気をうしない、めいめい狼狽して城の崩れようが醜くなり、自分をもふくめて大坂籠城衆ぜんたいの後世への名聞がわるくなるであろう。
「左衛門佐どのはあくまでも御旗をまもってもらいたい」と又兵衛が説き、ついに幸村を承知させたのは、それが理由であった。

徳川秀忠

秀忠は少年のことから無数の戦場を踏みながら一度も珠功をたてず、その能力も持たなかった。家康はそのことを不満とし、自分の亡きあと諸侯が秀忠に服従するかどうかが、つねに気がかりになっていた。
――こんどこそ、秀忠に華麗な場を与えてやらねばならぬ。
と思い、そのようにした。家康はこのたびの戦いの難易をその程度にみていた。
(略)
秀忠は、決して愚人ではない。人柄は篤実で質素であり、積極的に過ちをおかすような人物ではなかったが、ただうまれる場所をまちがえてうまれてきた。彼は山間の農家などにうまれれば一生、数頃の田圃に鍬を入れつづけ、丹念に耕して倦くことがなかったであろう。

幸村隊と伊達政宗隊の邂逅

幸村とその信州の部隊三千がみせた野戦の強さは、大坂夏ノ陣を通じての白眉というべきものであったであろう
(略)
敵はたちまちくずれた。幸村は追撃し(略)敵を討ったために、伊達勢のうち名のある者だけで三十名が討たれ、大将の片倉重綱までが槍をとって戦わざるをえず、重綱がこの総崩れのなかで軽傷を負うほどに苦戦し、後退した。
が、伊達軍がなにぶん一万の大軍であり、政宗のいる本体は無傷であった。(略)幸村はすぐさま…本体をめがけて猛烈な突撃を敢行した。このため伊達勢はくずれ、はるか後方の誉田の村落まで逃げ込まざるをえなかった。

「東軍に男はおらぬのか」

退却軍を追撃するのは、戦いの常道である。ところがここにいたっても徳川軍は一兵もうごかず、尻に食らいついてくる者がいない。
この時幸村は馬を小丘の上に立て、道明寺から石川、それに国分の丘陵地帯などにびっしりと旗をひるがえしている敵軍を観望しつつ
「東軍百万を呼号するといえども、ついに一個半個の男子もおらぬのか」
と嘲笑したことばは、後世にまでのこった。

幸村、政宗に娘を託す

東軍に属する大名は無数にある。選りに選って伊達家を選んだのはどういうわけか、ということをきいてみたのである。菅沼覚左衛門は
「そのことでござる」
といって、仙台少将(伊達政宗)どのはもともと自立の大名であり、その器量は天下人に次ぐ、わが孤児を託するのはこのひとをのぞいていないというのが主人のことばでございます、といった。
片倉重綱はみずから足を運んで政宗の陣所へゆき、これをどうすべきかについて上意をただした。
むろん、伊達家にとって危険である。このことが家康の耳に入れば、どのように心証を悪くするかわからない。
が、老獪で知られた政宗も、この一件については即座にいった。
「心得て候、と返事せよ」
それがこの時代の意気というものであったろう。
(略)
片倉重綱が去ろうとすると
「小十郎よ」
と、政宗はよびとめた。そのほうの養女にでもしてやれ、といって寝所に入った。
(妻も子もないのに養女とは…)
と、片倉はおもった。片倉は妻を去年なくしているのである。
(略)
「わしはあす、父なる君と戦わねばならぬ。父なる君に勝つためにはよく眠っておかねばならぬ」
と言い、立ち上がって彼女らを片隅へおいやり、自分のわらを敷きなおして、そのなかにもぐりこんだ。
(略)
懐剣をしのばせた娘二人のそばで平然と眠りつづけているこの男に内心おどろいたのである。
(略)
「奥州人はよほど器量が大きいと思いました」
と、彼女は晩年、この夜のことをもらしている。このことは、彼女の子の小十郎重長に語ってきかせた。というのは、彼女はのち、このことが縁になって、重綱の室になったのである。幸村の血は、奥州に遺った。

家康本陣突入!

「御旗本大崩れ」というのがのちの記録の一致した表現だが、家康を護衛していた旗本の内の大半が現場から一時逃げてしまったことはたしかであった。
(略)
真田幸村が手兵五十騎ほどでもって疾風のように切り込んできたのである。
「権現(家康)さまの御座所を土足で逃げ回った馬鹿者もある」
ともいわれるが、その土足で駈け散らした者は二人や三人ではなかった。
(略)
家康の武名の象徴である金扇の馬標が、田のなかにほうりすてられてあったのを、わずかに逃げずに踏みとどまった槍奉行の大久保彦左衛門がひろい、かろうじてそれらを守った。
のちにこのときの旗本衆の行動について詮議があったとき、大久保彦左衛門がこれについて供述した。その記録が「大久保彦左衛門覚書」としてのこっている。
ただし家康自身はこの現場を実見していない。
彼は侍臣数人とともに騎馬でもって遁れた。玉造方面をめざしたが、途中のがれがたきを思い、「二度までは自殺を口走った」(朝野旧聞裏稿)が、高野文殊院勢誉という浄土宗の僧がそのつど
「まずお待ちあれ、まずお待ちあれ」
と一ツ文句で、家康にむかってわめきつづけたという。

真田丸」では描かれなかった、幸村戦死の「その後」

首実検のあと、家康は西尾久作に二、三質問した。
西尾久作は、図に乗って話にいろをつけた。記録風の表現でいえば「スコシク、能ク申シアゲテ然ルベシトシテ」幸村と槍を合わせてずいぶん奮戦し、自分も少しく傷を負い、ようやく突き伏せましてござりまする、というと、家康はにわかに機嫌を悪くし
「うそであろう」
と、一喝した。
(略)
西野久作は体をふるわせておそれ入ってしまい、五万石の沙汰も消えてしまった。
「山下秘録」という書物によると、幸村の家来や配下の侍は一人残らず戦死したらしい。
「ふしぎなる弓取なり。真田の備に侍も一人残らず、一所に討死せる也」
とある。
首実検のあと、東軍の将士が
――武勇にあやかりたし
と、むらがり集まり、幸村の紙を一筋二筋剪って懐中におさめる者が多かった。


いかがですか。
重なるところもあり、違うところもあり、省略するところとしないところがあり。
史劇は、こういう読み比べもおもしろいものですね。

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