『基本的なマンガ表現と顔マンガ』を比較すると表現力の差が一目瞭然「言われてみれば確かに」 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/896239
このまとめが注目を浴び、はてなブックマークも
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/896239
と盛況なことを、まず、個人的にも大いに喜びたい。
もう一度、この話を再論できるからだ。
「カメラの構図(コマ割り)」という20世紀の魔法 〜町山智浩「鈴木先生」評をきっかけに - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130220/p3
ほったゆみの壮大な実験「はじマン」が、コマ割り=カメラアングルの謎を解く、啓蒙する。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130524/p3
「イマジナリーライン」「切り返し」とは何か?「20世紀生まれの魔法」カメラアングルの理論とは - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140317/p3
DEEP「ワンカメラネット中継」から「カメラアングル」とは何かを考える。実際に見たら、果たしてどうなる? - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140426/p2
漫画、アニメと「カメラワーク」の話のメモ。「想像上の自分をそこに立たせる」「隣の部屋に行く時、廊下を歩く場面を描く」… - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150808/p3
上の3つが特に重要、あとの2つは補足かな。
読んでもらうとありがたいのだが、とにかくここで何度も書いている話は
「視点=カメラアングル、がどんどんと変わっていく」という表現技法、それ自体が、映画を発祥とし、それから派生したテレビ、そして近代マンガで成長した「20世紀生まれの、まだ新しい表現技法」だ
という一点が核なのであります。
かつて劇場や競技場のど真ん中の、貴賓用ボックス、特等席を占めたような王侯貴族、皇帝陛下国王陛下でさえも、「ちょっと寝技でもつれて見にくいのう。いまどっちが攻めているのじゃ?」とか「ほほう、満塁のピンチか。キャッチャーは、どんな表情をしておるのかのう」……そんなときに、展開に合わせてそれを見ることは不可能だった。見るものの視点は、会場中を駆け回らないかぎり、すべて一方向から。
しかし、「カメラアングルと、その画面の切り替え」「コマ割り」などによって、かつて誰も楽しむことのできなかった、新しい表現技法が作られ、その中でさまざまな表現技法が進歩した…ということ、それ自体に沸き立つような知的興奮を覚えませんか?
…そちらも、覚えてくれないと、こっからのノリについてけませんよ(笑)。
ともあれ、そして、その表現技法の進化が「顔マンガはやめて、もっと工夫しよーよ」という話になったのです。
https://twitter.com/mangakato/status/661687118473785344/photo/1
かとうひろし
@mangakato
言葉は抽象的なので、受け手の想像力によって受け止め方が異なってきます。‥で、こんなのを描いてみました。
日頃のつぶやきを具体的にお伝えすると、こんな感じになります。
【追記】12月8日にもこんなツイートが
「顔マンガ」で「無駄ゴマ」で「誰のセリフなのか分からない表現」の「ストーリーマンガ」の一例。
ウソだと思うでしょうが、こういう「描き方」の作品に出会います。 pic.twitter.com/fWv2Wpqof3
— かとうひろし (@mangakato) 2015, 12月 8
実にわかりやすい。
ただし、指摘もすでにされているけど、計算した上で、あえてこういう「顔マンガ」の手法を選んだり、それが効果的なこともあるっちゃある。
そしてまた、今は技法が成熟し、作り手個人個人の未熟さゆえにこうなるのだが、社会全体、表現全体の時代的な進歩、あるいはその逆の制約がこれを生むことがある。
戦前マンガ(プレ手塚治虫)を見てみると…
そこで戦前マンガを再びみる。ぼくの大好きな田河水泡マンガ。
上の抜粋は少々恣意的で、たしかにあまりアングルを切り返さず、そのまんま会話させてるシーンもこのように多いけど、まさに新しい芸術だった映画を咀嚼し?大胆にアングルを切り替えてストーリーを薦める場面もある。
ただ、上のようなシーンがいくつもあるだけで、今は編集者からダメだしされるレベルでしょうな(笑)。のらくろ自分も好きだけど、実際のところ、こういう一昔前の表現技法への違和感が面白さに転化されていることも否定しない(旧かなづかひがそれだけで滑稽な感じがするように)。
あとひとつ気付いたんだが、
顔マンガはダメだといっても、人物Aの顔から人物Bの顔に「カメラ」が切り替わる時点で、田河水泡マンガの会話劇?の描写より、一歩進んでいたのだ!!!!
書きながら新発見がある、これが文章の醍醐味ですねえ。
これは時代の制約として、「演劇的にマンガが描かれていた」とすると説明がつきやすい。
田河水泡の画像集なんてのを、以前つくりました(togetter)
「のらくろ」「蛸の八ちゃん」作者、田河水泡の愉快(ゆくわい)な画像集 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/818526
そういえば筒井康隆…実際に役者として、演劇経験も豊富な作家…が、のらくろの表現技法について書いている文章を全集で読んだ記憶がある。
「演劇的な特徴のひとつに、奥から呼ばれた役者が振り返る時、完全に後ろを向くのではなく、顔は横に向ける。これはのらくろマンガでもそうしている」と。
この文章じゃないが、筒井氏がのらくろを評した文章。
http://book.asahi.com/hyoryu/TKY200904070248.html
そして手塚マンガが大胆に映画的技法を…(※という伝説)
いやあ、偽史というか俗説ってなくならないわけだ。
それが違うと分かっていても、単純化されて説明がラクなのでつい書いてしまう。「まあ、完全に根も葉もないわけじゃないし…」と思いながら。
「手塚治虫が映画的技法を開発した」は、川中島の一騎打ち、ぐらいにオハナシなのだが、まあそんなアレだと思ってちゃぶだい。
それに、田舎のマンガ少年にとっての個人的体験史としては「真実」なのだ。
この、富山で新宝島を読んだ藤子不二雄の衝撃も有名だけれども、秋田出身の矢口高雄にも、手塚の「流線型事件」という作品を読んだ衝撃を回想した一節がある。
そして回想はそのまんま、似ている…
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まあそんな一通りの「手塚伝説」で、マンガ技法の変化を印象付けてもらったあとで「実は…」と種明かしをするというのも、またひとつの方法かもしれないな。
こちらが、伝説破り。
「手塚治虫が全てを創造した神話」との戦いとは〜マット・ソーン氏が語る - Togetterまとめ http://togetter.com/li/815121
追記
のちに手塚の、こんなコマをtwitterで見た。新機軸の創始者ではないが推進者ではあるんだね
手塚は50年代初頭からすでに「戦前マンガの表現は舞台的で退屈」って言ってるんだな。戦前の作家たちもまだまだ活躍していた時代なのに…。 pic.twitter.com/rB2a4Ag9yT
— 新美ぬゑ (@nue213) 2017年4月10日
「若い」だけでなく「普通の人がやる機会のない」表現技法…だからこそ、みんなでやってみない??(ほったゆみ「はじマン」)
上のリンク集のふたつめで紹介しているほったゆみ「はじマン」。
第一回の冒頭部分を、少しだけ画像で紹介させてください……
はじマン 1 チャレンジ! はじめてのマンガ (ジャンプコミックス)
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はじマン 2 チャレンジ! はじめてのマンガ (ジャンプコミックス)
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もう、当方はこの連載がネットで始まった時は、一から十まで「わが意を得たり」「お前はおれか」と賛同しっぱなしだったもんだった。
文章は、歌は、なんだかんだと多くの人がそれで「表現」し、技法にも工夫する。「絵」単独でもそうだろう。
しかし、何度でも繰り返すが、カメラアングルやコマ割りは、”20世紀生まれの若い技法”。
この手法は、ほぼ100%の日本人が「見ている」。だが、多くの人は、これを実際に作るという経験はしていないんですわな。
そういう特殊な技法であることは間違いないし、自分でやらないからこそ、特殊な技法だと気付かないという逆説もある。
しかし…その一方で
「ビデオカメラ」が普及し、
そしておそらく、技法的にも割合的にも、たぶん絶対数的にも世界最大級の「アマチュア漫画家」を抱えるのが、わが極東小国だ。
漫画、映画、テレビを深い形で「読む」「見る」をしている割合も多い。
今回の「顔マンガ」が話題になったことで、再度自分が語りだすのは、この「カメラアングル、コマ割り」を実際にやってみたら?(頭の中ででも)という話につなげようという気がある。
もちろん、本格的に漫画をかいてみな、と言ってるわけじゃないので誤解なきよう。
そういえば、コミックマーケットの作者さんって、この時期は原稿とか終わってるのかいな…?
という感じで、顔マンガどころか、そのひとつ手前の、田河水泡マンガ的な、ひとコマにおける二人の登場人物の会話になっている。
これはこれで、進化過程の追体験のようで実におもしろい。
ここからどうやって「顔マンガ」にいったん進化し、そして近代マンガにさらに進んでいくのか。
それを可視化した「はじマン」の文化的功績は、いくら顕彰してもしたりない。
コマ割りやカメラアングルの、センスが君にはあるか?ぼくを超えられるか?
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なんだそうだ。
このへん、現実に即して描いているのか、フィクションなのか、わからんちん。
映画の尺やカットと同じで、同じ話の展開でも、使うのは数コマなのか1コマなのか。その選択…は、センスなのか後天的な学習なのか。
もし先天的センスが大きいのなら、ヤン・ウェンリーが歴史学者になっていたらその軍事的才能が発揮できなかった…ように、マンガや映像の仕事以外についてしまったために、このたぐい希なカメラアングル、コマ割りのセンスが自らにあることを知らず生涯を終える人もいる、のかもしれない。
そんな埋もれた才能が、自分にあるかどうかを知るために、ここはひとつやってみたらいかがでしょう、と煽るのである。
たとえばコマ割りのセンスには、こういう感覚も含まれる。
https://twitter.com/perspective_ma/status/660653266510807040
ぱ〜すぺ @perspective_ma
「サルまん」の本棚に置いてある“なめ茸”のカットが好き。
自分も真似をしてみた事もあった。
サルまん サルでも描けるまんが教室 21世紀愛蔵版 上巻 (BIG SPIRITS COMICS)
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サルまん サルでも描けるまんが教室 21世紀愛蔵版 下巻 (BIG SPIRITS COMICS)
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しかしまあ、なかなか難しい。
ひとつお手本をみせましょう。
・・・・・官軍の予備隊が駆けつけて左翼隊の崩れが辛うじて支えられるや、逆に五稜郭軍は崩れ立った。
これ以上は、進めない。
が、ただ一騎、歳三だけが行く。悠々と硝煙の中を進んでいる。
それを諸隊が追おうとしたが、官軍の壁に押しまくられて一歩も進めない。
みな、茫然と歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍だけでなく、地に伏せて射撃している官軍の将士も、自軍の中を油然と通過して行く敵将の姿に何かしら気圧される思いがして、誰も近づかず、銃口を向けることさえ忘れた。
歳三は、行く。
ついに函館市街の端の栄国橋まで来た時、地蔵町の方から駈け足で駈けつけて来た増援の長州部隊が、この見慣れぬ仏式軍服の将官を見咎め、士官が進み出て、
「いずれへ参られる」
と、問うた。
「参謀府へ行く」
歳三は、微笑すれば凄みがあるといわれたその二重瞼の眼を細めて言った。むろん、単騎斬り込むつもりであった。
「名は何と申される」
長州隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。
「名か」
歳三はちょっと考えた。しかし函館政府の陸軍奉行、とはどういう訳か名乗りたくなかった。
「新選組副長土方歳三」
と言った時、官軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。
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これを堂々漫画化!!
※画像を直接クリックし「オリジナルサイズを表示」で見ると多少鮮明になります
まあ、こうやってみると、ぼくも相当に先天的なコマ割り、カメラアングルの才能があったようだ。
ここまでやれとはいわないので、
みなぼちぼちと、おれをめざしなさい。
「燃えよ剣」は読者を限定しそうだから、もうすこし広く読まれてる古典をお手本にマンガにするか。
現在の漫画家では、私から見ても画力においてなかなかのものだと評価できる谷口ジロー氏も、この場面を作中作として描いている(「坊ちゃんの時代」1)ので、読み比べるのも一興だろう。
- 作者: 関川夏央,谷口ジロー
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http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html
「だまれ」と山嵐は拳骨げんこつを食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉ろうぜきである。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲なぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲なぐってやる」とぽかんぽかんと両人ふたりでなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲こりて以来つつしむがいい。いくら言葉巧たくみに弁解が立っても正義は許さんぞ」
あれ?
「顔マンガ」になっちゃったぞ!!!
自分でも予想外のオチになったところで、この話はひとまずおしまい。
おまけで再掲載 「オールラウンダー廻」作者・遠藤浩輝先生からの「コマ割り」アドバイス。 「キメの大ゴマから…”逆算”せよ!」
https://twitter.com/hiroki_endo
遠藤 浩輝 @hiroki_endo
@gryphonjapan @kijiguy お疲れ様です。私ら漫画家はとにかく「解りやすくてカッコ良い絵」を大ゴマで描く、が大好きなので例えば十字極めた時の絵がヌキ所、としたら逆算してコマ割りします。とにかく「ヌキ絵」まではとにかく解りやすさを最優先しますね。
そこでの「イマジナリーライン」は単純に「抜き所」までのコマ数で決まるので、限られたコマの中でどれだけ解りやすくするかの勝負です。なのでテクニカル上の問題で「イマジナリーライン」超えてしまうケースは有りますが全ては「ヌキ所」 の為!
(※当方の質問)
gryphonjapan (MMA)
ふーむ、これUstで聞けず今日の記事で書いたんですけど、やはり物語の試合展開が決まったとして、その構図、コマ割りは自然と頭に浮かびますか?やはりそこから、かなり何案も考えますか? @hiroki_endo @kijiguy
遠藤 浩輝 @hiroki_endo
@gryphonjapan @kijiguy これは私も描いてて面白いんですが、最初の予定より流れに従った方が面白い物が出来るので、まあ「無我」で行きます。若い時は不安でそれが出来なかったんですが。
さらにおまけ 寺田寅彦「映画のモンタージュ…ああ、要するに『連歌』ですな」…スゲー!
これ、リンクに飛んでさらにもうひとつリンクを飛ぶと読めるんだけど、そういう人は少ないことは知ってるのでここに再度のっけちゃおう。いまツイートしたやつをコピペ
gryphonjapan @gryphonjapan
ブログで『顔マンガ』の話から、映像表現全般に話を広げた記事を書いたけど、リンク先のさらにリンク先に、映画のそういう新表現と古典日本文学の共通性を喝破した文がある。
書き手は寺田寅彦!彼はいう「映画は…連歌だ!」(ドーン)
(略)…ほこりっぽい、乾苦しい、塩っ辛い汗と涙の葬礼行列の場面が続いたあとでの、沛然として降り注ぐ果樹園の雨のラストシーンもまた実に心ゆくばかり美しいものである。しかしこのシーンは何を「意味する」か。観客はこのシーンからなんら論理的なる結論を引き出すことはできないであろう。それはちょうど俳諧連句の揚げ句のようなものだからである。
映画「大地」はドラマでもなく、エピックでもなく、またリュリックでもない。これに比較さるべき唯一の芸術形式は東洋日本の特産たる俳諧連句である。
はなはだ拙劣でしかも連句の格式を全然無視したものではあるがただエキスペリメントの一つとして試みにここに若干の駄句を連ねてみる。草を吹く風の果てなり雲の峰
娘十八向日葵の宿
死んで行く人の片頬に残る笑えみ
秋の実りは豊かなりけりこんな連続コンチニュイティをもってこの一巻の「歌仙式かせんしきフィルム」は始まるのである。それからたとえば
踊りつつ月の坂道ややふけて
はたと断えたる露の玉の緒とでもいったような場面などがいろいろあって、そうして終わりには
葬礼のほこりにむせて萩尾花
母なる土に帰る秋雨(後略)
と、いうわけで
寺田寅彦は、まだ生まれて間もない映画のモンタージュ技法…場面を変え、視点を変えて物語を作る斬新な技法を「ふむ、連歌だね」
と喝破したのでした。だてに帝都物語に出てない(関係ない)。引用は、ここから。(了)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2467_9719.html
おまけ 絵がかけない人でも、いまはコンピューターソフトがあったっけ…。
おれぐらいに(※臆面もなく)かける人はそうそういないからねー。
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というソフトがあるよね、とブックマークで言われて思い出した。
おまけ わざと「舞台」的演出を狙う実験漫画もあり。
id:deep_one 手塚漫画で…というなら「定点視点の画面だけで進行する話(羽衣編?)」が火の鳥にあるのを忘れてはいけない
これなー。最初にも、いかにも芝居のような演出があったっけ。
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そして「こち亀」にも敢えて舞台的に一方向から描き「新喜劇っぽいだろ?」とやる回があったと記憶しているが…具体巻までは発見できず。そんなときにはこうするッ。
すいません、前回に続き、再び自分の興味と都合で質問するのですが…https://t.co/fOmy1OC99E
— gryphonjapan (@gryphonjapan) 2015年11月10日
に関連してちょっと最後の部分に書いたのですが、こち亀に、舞台的な視点、一方向だけから描いた話があったと記憶しています。
何巻かご存知でしょうか?@maxaydar
https://twitter.com/maxaydar/status/664042354089721856@gryphonjapan 68巻5話「よみがえる軽演劇!の巻」かと思います https://t.co/FfVCLJwCOv
— まさひこ@「こち亀データベース」管理人 (@maxaydar) 2015年11月10日
回り舞台での場面転換や観客の盛り上がりまで描かれたおもしろい話でしたね(・ω・)
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おお、即座に!すごい。
— gryphonjapan (@gryphonjapan) 2015年11月10日
早速、このやり取りをそのまま記事に収録させて頂きます。ありがとうございました@maxaydar
https://twitter.com/maxaydar/status/664044214162845698
@gryphonjapan お役に立ちましたら幸いです^^ちなみに初出は週刊少年ジャンプ1990年5号のようです。
— まさひこ@「こち亀データベース」管理人 (@maxaydar) 2015年11月10日
懐かしくなり早速ひっぱりだして再読してみましたが、ドリフ世代にはたまらない味がある演出ですねw pic.twitter.com/mN0GVJOLQc
おまけ コメント欄より「羅生門」
id:fullkichi1964 2015/11/11 04:31
ちなみにワタシの知る限り、日本でカメラワークの技法を「活字媒体で」取り上げた最初期の作品は今年発表100周年を迎えた芥川龍之介「羅生門」。下人が羅生門の階段に足を踏みかけてから、暗闇の中再登場する場面ですでにカメラ切り替え&クローズアップの技法までが取り入れられている。実は当時最先端の映像的作品なのですよ、あれは。http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html
gryphon 2015/11/11 07:34
ほー。「映画とは俳諧連句ですな」として寺田寅彦とは同じ漱石門下。
そんな雑談を水曜会でしてたのかしら。