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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

欠損女子(凄い名称…)の議論はミゼット・プロレスの時に言い尽くされてますよね(異端の笑国、呉智英)

義手・義足の“欠損女子”に会えるバーに潜入 障害は「かわいい・かっこいい」|ウートピ http://wotopi.jp/archives/28686

ぼくのブクマ

この辺の議論はすでに「小人プロレス」で言い尽くされているねん。あれは結局、ポリコレに反するということになったっけ

蔵書から紹介シリーズの一環として、それを写そう。
滅びる寸前だったミゼットプロレスをルポした作品を、呉智英氏が論評した文章を紹介します。

「異端の笑国」(文庫版の題は「君は小人プロレスをみたか」)は滅びゆくショースポーツ、小人プロレスのルポルタージュである。おそらく二度とこの種の本がでる可能性はないことを考えれば、資料として貴重だろう。しかし、それよりもむしろ「人権いい子」が内心の葛藤をどう処理していったかの記録として興味深い本だ。

小人プロレスは成長ホルモンの異常のため身長の伸びが止まった奇形者たちのプロレスである。発祥の地はアメリカだが、日本ではそれを輸入する形で1960年から始まった。その後、しだいに社会の表面に出にくくなり、1980年代にはほとんど見かけなくなった。もちろん、奇形者を見世物にするとは何事だという非難が広義の人権イデオロギストによって出たからである。
しかし、障害者の人権を守れと主張する人たちは、一方で、奇形者が社会から隔離されることを批判してきた。奇形者を目に触れなくすることがすでに差別である、と。そうだとすれば、小人プロレスを社会から抹殺するのも差別になるのかもしれない。全共闘運動に参加した兄を持ち、自信も学歴や受験に反駁を覚えていた高部雨市(※ルポ著者)は、そんな関心から小人プロレスを取材することになる。
高部がそこでみたのは、小人レスラーの厳しい訓練であり、職業意識だった。レスラーたちはホルモン異常で小人となっている。自ずと、他にも内蔵に障害を持つ人が多い。それをおして訓練をする。当然、寿命を縮めることになる。(略)それでもなお、彼らは小人プロレスを廃業しようとしない。
(略)
しかし小人プロレスは”笑われる仕事”である。高部は取材で興行をなんども見物しながら、笑うことができない。高部を除くすべての観客は、小人レスラーの珍妙な、しかし真剣なプレイに、それが真剣であるだけよけい珍妙だとして、腹を抱えて笑い転げている。
そのために金を払ったのだから、当然である。高部にはそれができない。
だが、あるとき、あまりに滑稽なプレイをみた高部は、思わず笑ってしまう。(略)高部は結論づける。笑われるショーに生きる小人を認めるべきだ、良識がこれを隠そうとすることが差別なのだ、と。
いささか長い紹介は、高部雨市の内心の葛藤の深刻さと、それを人権イデオロギーに整合させる過程のまわりくどさを読者に伝えたかったからである。

しかし、いったい、高部雨市は何をこんなにくどくどと悩む必要があったのか。素直に認めればよいのである。小人プロレスは奇形者の見世物である、と。
どこをどう言いつくろったって、それ以外の何物かであるはずがない。当然、人権イデオロギーに反することである。人権イデオロギーに反することを、奇妙な充実感を伴って小人レスラーたちは演じているのだし、観客たちは笑い転げて楽しんでいるのである。
反論があるだろう。
小人たちは全き充実感を覚えているのか、観客たちは悲しみは感じていないのか、と。
おろかな反論である。
小人レスラーが全き充実感を覚えているはずがあろうか。
悲しみもあり怒りもあり、その上で、人権イデオロギーからみれば不条理とか言い様のない充実感を覚えているのだ。観客たちが悲しみを感じていないはずがあろうか。笑い転げたあと、自らの罪深さを恥し、悲しみを覚え、しかし、次の興行にはまた笑うために見物に出掛けるのである。
人間は、人権イデオロギーと整合関係になどありはしない。(後略)

以上、「危険な思想家」文庫版P134ー136。

危険な思想家 (双葉文庫)

危険な思想家 (双葉文庫)

おまけ ポリコレはフェティシズムの敵か、味方か?

突き詰めていけば欠損女子の話はそういうことにもなるし、またこの話もしておけばミゼットプロレスでカバーできない部分も論じられるだろう。


実はこの視点も、呉智英氏の著書から学んでいるのだが(どの本かは思い出せず)要は性の問題はしばしば人権、ポリティカルコレクトネスの範疇に収まらない、だからこそ大きな思想問題なのである、と。

で、そもそも議論の前提となっている、障害や肉体的欠損に性的な魅力を感じる…というのが、本当に実在するのかはどうにも実感では掴みにくいのだが、情報をみれば、まああるのだろう。

全員ではないだろうが、そういう性的な好みのもとに、そういう女性がいることをPRしているバーに通う。
それがいいのか悪いのか。
ブクマにて「メガネ女子が好き、というのとどう違うんだ?」という書き込みがあり、はあなるほどと思ったのだが(そういえば、呉氏は80年代初頭に「メガネをかけた女性の魅力がわからないのかっ」と主張していた先駆的存在でもあった)、……まー、簡単にいえば、メガネをも引っくるめてダメなんでしょ、ポリコレ的には。
というのは、100%ポリティカルにコレクトな恋愛論とは、「異性には外見や性的魅力ではなく、その人格そのものへの尊敬と愛情がなければなりませぬ」。美醜だけで判定するのは、古事記の時代から(あの書はぜんぜんポリコレじゃないけどさ)怒られていたのでしたよ。

ではその解決策なんだが、
これに関してはプロレス用語「ケーフェイ」というかお約束、八百長でいいのであって、実情がどうであろうと「メガネとか障害とかじゃなく、僕はその内面にこそ惹かれているんです」と言い張ればいい、かと思う。
なんでその子の内面もわからないままバーにいくんだとか、二次元の絵やグラビア写真で内面もなにもないだろ、とか即座に突っ込める場所もいろいろあるが、そこはプロレスのケーフェイと同様、それを言ってもだれも幸せにはならないのである(笑)。
そんなところでどうでしょうか。

と同時に、相手の肉体的な欠損に性的に惹かれるのは、統計的にいって性的マイノリティでありましょう。
となるとこの「性的マイノリティ」の定義、先天的で変更不可能なのか後天的で変更可能なのか、性的指向性的嗜好の違い……とか論点はいろいろあるのだが、それは主にtogetterに、過去にいいまとめがいろいろできているから、それを見てくだされば。