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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

金子堅太郎(日露戦争時の対米ロビイスト)が行った、戦死したロシア海軍提督・マカロフへの追悼(「日本の近代」16)

上の記事で取り上げた本からもうひとつ。この本、時間軸は幕末から冷戦期までをカバーしています。
1905年4月12日、ロシア海軍きっての戦略家で、水兵から叩き上げた提督・マカロフが、日本軍の機雷によって旗艦が轟沈(一説には、この時に「轟沈」という言葉ができたとも言われる)、戦死した。水兵からも「マカロフ爺さん」と呼ばれる一方、米国にも知己が多かった。

この人物が、偶然の要素の強い機雷攻撃によって早期に戦死したことは、日露戦争の帰趨に大きく関係したとも言われる。

その2日後、金子はNY五番街の晩餐会に招かれ、紹介に答えて挨拶した。
その挨拶の結びで、金子はこう語る(漢字は、適宜、いまふうに変えた)

日本の近代 16 日本の内と外

日本の近代 16 日本の内と外

余は、この夕べ、歓楽湧くがごとき間にありて、露国海軍中将「マカロフ」の旅順港外において戦没せし報を聞き、悲喜こもごもいたる。思うに本戦役は、国と国との公戦にして人と人の私闘にあらず。
マカロフ提督は、人となり誠忠にして多能、つとに海軍戦術家として令名あり。
その著書「戦術論」のごときは、既に日本文に翻訳せられ我が海軍将校の間に伝唱せらる。而していまやその忠死の訃音に接す。何ぞ哀悼の情にたえん。
然りと雖も提督は、露帝の命を奉じて職にコンガイ(宮門の外)に就し、一朝君国の為に弊れ武人の本分を全うせるものにして、敵味方の区別なく均しくその忠君愛国の事蹟を景慕し、その名声は永く露国の海軍歴史に赫々として輝くべし。

翌日の新聞はこれを特筆大書した、と同書は記している。