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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

ゴジラ復活で真夏に思う。『円谷英二の戦争協力、ガチだよな…』。彼は”特撮の堀越二郎””日本のレニ”ではないか?

現在、アメリカ版ゴジラは20億円の興行収入に到達。今後のポイントは、30億円に行くかどうか。厳しいかな…ライバル映画も多い。
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そんな折なんだけど、少し前に見た話を。
ゴジラを、そしていまは「ウルトラマンギンガ」が放映中のウルトラシリーズ、いわずと知れたその源流にいるのが巨星・円谷英二だが・・・


けっこう、この人は「子どもたちののあこがれ」の存在として、いまは少年向けの伝記とか、伝記漫画とかが出ているんだ。それを、少し気になってぱらぱらと見たら、戦後、ゴジラを作る前の経歴のところで、さらっと書かれていたことがあったんだ。

「戦後、公職追放され……」
 
ん、まあ自分も彼が戦時中、戦記映画の戦闘再現シーンで、彼がその才能を思う存分発揮したことや、戦後GHQが彼の特撮パートを「実際に現場をフィルムに収めたに違いない!」と勘違いしていたことなど、各種の伝説を聞いていた。だから、特に大きく驚くことはなく「まあ公職追放ってものも、かなりいい加減だからねー」と思った、のだが…


あらためてウィキペディアの「円谷英二」を見てみると…

1935年(昭和10年)、34歳。2月から8月にかけ連合艦隊練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作…
同年、アニメ作家政岡憲三と組み、人形アニメ映画『かぐや姫』を撮影。
1936年(昭和11年)、35歳。ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用し、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。
このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンク監督は「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆…

…『嗚呼南郷少佐』を監督(撮影兼任)…『皇道日本』で撮影を担当。同じく5月の『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影…公開時大評判となった…『燃ゆる大空』……東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画……円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画すべてを担当し…ていく。『上海の月』…『南海の花束』…特撮の腕を存分に振るった『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒット……『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』、『あの旗を撃て』、『かくて神風は吹く』といった作品の全ての特撮を担当…『勝利の日まで』、『間諜海の薔薇』、『北の三人』の特撮を担当…

九九式軽機関銃(1939年、東宝) - 陸軍兵への教材映画。
水平爆撃理論編(1940年、東宝
鈴鹿海軍航空隊の教材映画。真珠湾攻撃のマニュアルとなる。鷺巣富雄の考案した「スチールアニメーション」を初使用。「実践編」と二部編成。
水平爆撃実践編(1940年、東宝) - 「水平爆撃理論編」の第二部。
浜松重爆撃機(1941年、東宝
海軍爆撃隊(1940年、東宝
燃ゆる大空(1940年、東宝
南海の花束(1942年、東宝
翼の凱歌(1942年、東宝
ハワイ・マレー沖海戦(1942年、東宝
加藤隼戦闘隊(1944年、東宝
雷撃隊出動(1944年、東宝

こりゃ、追放されるわ!!
しかし幸か不幸か、それとも善か悪か、あまり間を置くことなくこの天才は映画界に舞い戻り、そして人類の財産であるゴジラウルトラマンを作り上げたのだった。その才能を認め賞賛した人々には旧連合国を含めた海外の人も含まれるのであって…フィルモグラフィから、エイジ・ツブラヤが過去にどんな映画を撮ってきたかを、誰も知らなかったと考えるのは不自然だろう。その経歴も認めたうえで、世界はエイジ・ツブラヤとその魔術的な特撮を賞賛したのだ。


戦争協力と映画、というと、一番有名なのは日本の同盟国、ドイツの彼女だ。

レニ・リーフェンシュタール
ナチスが政権を獲得した1933年、リーフェンシュタールの才能を高く評価したアドルフ・ヒトラー直々の依頼により、ニュルンベルク党大会の映画、『信念の勝利(ドイツ語版)』を監督した。翌1934年には『意志の勝利』(1935年)を撮影した。…さらに…ベルリンオリンピック(1936年)の記録映画『オリンピア』…
 
非ナチ化裁判においては「ナチス同調者だが、戦争犯罪への責任はない」との判決を得て自由の身となった。
その後も西ドイツ国内外のジャーナリズムから反ナチズムの執拗な誹謗と中傷を受け続けたが訴訟、裁判の結果、その記述のすべてに勝訴した。しかし…以降も政治的な誹謗、また「ヒトラーの元愛人」というような流言まで飛び交い、「ナチスプロパガンダ映画製作者」というレッテルとそれによる断罪に苛まれ、失意の日々を過ごす…


まあ、正確にはレニは「ナチスの協力者」として批判を受けたり、そこから弁明した。「ナチス(ドイツそのものに非ず)」と「日本」のそれはやはり違う、という定義が、やっていることは違っていてもレニと円谷の間にある大きな差だったのかもしれない。

100歳を超えて生きた、というか100歳を超えて映画監督を務めたレニの「無邪気(≒無反省)な映像職人」ぶりは、沢木耕太郎がインタビューして記録に残している。数回このブログでは紹介したな。

オリンピア ナチスの森で (集英社文庫)

オリンピア ナチスの森で (集英社文庫)

 
もっともレニは一番有名で象徴的なぶん、「例外」かもしれない。もともと映画職人は極めて限られた専門職、戦意高揚映画に携わったドイツの映画人も、大抵は戦後、現場に復帰したのかもしれない。


そして堀越二郎と、円谷英二。「風立ちぬ」か「特撮映画作りぬ」か。

自分は数本、映画「風立ちぬ」の感想を書いているけど

宮崎駿風立ちぬ」感想雑感。まとまりなく断片的に - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130809/p4

この作品への(政治的)批判、それへの弁護論を聞いて自分は「ああ、”月ロケットの父”フォン・ブラウン博士のテーマとつながるな」と感じた。そして見たあとも、やはりそうだな…とその見方はかわらなかった。
ある意味、住所は同じで、同じアパートの3号室と5号室ぐらいの距離しかない(笑)。
…あそこで描かれた「自分の夢を最優先し、政治の善悪の判断もその夢の前には優先順位が下になる」者たちの悲喜劇

風立ちぬ」を念頭に置きつつ、原爆・毒ガス技術者を描く漫画を再読しよう(栄光なき天才たち) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130924/p6


円谷の伝記や、上のウィキペディア記述を見ても、やはり”同類”感はぷんぷんと漂う…のは、勝手なこちらの思い込みだろうか。

堀越二郎円谷英二論は、上の円谷の赫々たる戦争映画製作歴を見てからずっと思っていたのだが、残念、本日発表する前に、先行してこのことを考察しているブログがはてなにありました。
浅羽通明講演会でしばしば同席させていただく、葦原骸吉氏。

円谷英二は戦争協力者ですが何か

http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20140611#p2
ゴジラ』の特撮監督を務めた円谷英二が、戦時中に海軍省の宣伝映画である『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)の撮影に関わったため、戦争協力者として戦後は一時期公職追放になったのは有名な話だ。その点は円谷もいろいろと鬱屈を抱えていたはずである。
(略)
円谷はそれこそ、映画『風立ちぬ』での堀越二郎みたいな人物で(現物の堀越二郎はもうちょっと現実主義者)、良い特撮映画が作れるなら軍に協力だって何だってしますという、芸術至上主義のマッドサイエンティストみたいな気質があったと思われる。
だが、円谷が関わった映画を観た多数の青少年が、その影響を受けて予科練に入り、そこから特攻隊員となったり、帰らぬ人間となり、その母親たちは戦後も亡くした息子を思って泣いていれば、別に左翼の反戦主義者でなくとも、そら鬱屈もするだろう(たとえ大東亜戦争は正しい義戦で戦後占領軍の押しつけ平和主義は一切誤っていても)。
ゴジラ』の劇中、使い方次第では多数の人間を救えるが恐ろしい兵器にもなり得る発明を手にした芹沢博士の姿は、万人を楽しませることもできるが戦争の道具にもできる映画に関わった円谷英二自身だったかも知れない…

自分は諸事まぎれたり、「一緒に行くか」という人の都合がつかなかったりしてまだGODZILLAは未見。夏の終わりまでに、見られるだろうか。


お盆は、この暑さも少しは収まるという。