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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

資料「おたく学入門」


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オタク学入門1996年5月25日版 �1996.Toshio Okada

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�- オタクの正体

�-1 オタク進化論

�-2 オタクの記憶バンク

�-3 オタクが情報資本主義社会をリードする








�-1 オタク進化論



 




●隠された「オタク」の語源

 最初にクイズからはじめよう。

 「オタク」はNHKの放送問題用語である。

 これはイエスかノーか?

 答えは、残念ながらイエスだ。

 僕がこの事実を知ったのは、NHKで取材を受けたときだ。「オタキング」を自称している僕に、海外のアニメ事情について話してほしいという依頼があった。それにあたって「オタク」という言葉は使えないといわれたのだ。たぶん、NHKの人は、「ファン」とか、「マニア」にいい換えて欲しかったんだと思う。

 このエピソードはオタクの不幸を物語っている。つまり、「オタクとは何か」が、イメージだけで不当に語られ、差別され、きちんと検討されてこなかった不幸だ。

 いってみれば、日本人に取材しないで展開されてきた日本人論、みたいなものか。では、未だ知られていない「オタク」という言葉の発生から遡ってみよう。

 「オタク」という言葉を使い始めたのは、慶応大学幼稚舎出身のおぼっちゃまたち、というのが一応の定説だ。彼らは熱烈なSFファンで、その中の何人かは「スタジオぬえ」というオタク系アニメ企画会社に就職し、オタク受けNo.1アニメ『超時空要塞マクロス』を作って大ヒットをとばした。

 時に西暦1982年。彼らはまさに全オタク、憧れの存在だった。

 その彼らが、SF大会などファンの前でオタクと呼び合っているのだから、他のオタクたちが真似ないはずはない。

 おまけに彼らは、自分たちのアニメ『マクロス』で登場人物にも「お宅」と呼び合わせている。

 「お宅、今ヒマ?」

 というのがヒロイン・ミンメイが主人公・ヒカルを誘うお言葉だ。

 お嬢さんお坊っちゃんタイプで、今までの努力根性熱血貧乏タイプのヒーローとは大きくかけ離れている二人が「お宅」と呼び合っているのはなかなか象徴的だ。

 スタジオぬえのオタクたち・及びその作品「マクロス」がきっかけで「オタク」という呼び方はあっという間にオタクたちの間で広がった。コミケと呼ばれる同人誌即売会にくるような、初心者のファンたちまで「オタク」「オタク」と呼び合うようになった。同時に、自然発生的に「オタク」と呼び合う人々を「あいつら、オタクだから」と十把一絡げに差別する言い方も生まれた。

 だから、この頃にはすでにSFファン同士はお互いを「オタク」と呼ぶのを止めていた。「オタク」という言葉は、まずオタク自身の中で差別用語になったのだ。

 僕自身、大阪の自分の会社では、東京のすかしてばかりで中身の伴わないSFファンたちを「オタクはほんまに」とか言って笑ったりしていた。その現象をロリコン誌「まんがブリッコ」のエッセイで中森明夫が指摘したのが1983年のことだ。それが今や「現代用語の基礎知識」にしっかり載っている。

 実際には、オタクと呼び合うようになってから、一般社会に知られるようになるまで数年かかっている。後に、オタクという言葉は「家にずっとこもって外にでない人たち」みたいに誤解されて広まった。「お宅」というインドアなイメージがうまく重なったからだろう。結果「アニメやまんが、ゲーム好きな奴」イコール「ずっと家にいて暗くて人付き合いの悪い奴」という誤解を生むことになった。当初の「初対面の人間にも失礼にならないための呼びかけ」という社交的要素は、なぜか置き去りにされてしまったのだ。



 




●映像時代の生存競争に適応したオタク

 しかし、僕は実はオタクは、差別される人種どころか、「映像の世紀」といわれるこの20世紀に生まれたニュータイプの人種だと思うのだ。つまり映像に対する感受性を極端に進化させた「眼」を持つ人間たちがオタクなのだ。

 もちろん、映像の時代がもたらした、この人間の視覚の進化は緩慢ながらあらゆる人間にも及んでいる。

 それは19世紀の人間が、たとえば映画『スピード』を見せられたときの戸惑いを想像すればわかるだろう。カットバックが多用された映像は、その文法を知らない人間にとっては、理解不能のものであるはずだ。しかし、僕たちはそれを何の違和感もなしに理解して楽しむことができる。

 とりあえず、ここではオタクの定義として、「進化した視覚を持つ人間である」を、第1項目としてあげよう。

 では、オタクの進化した視覚とは何か、どうしてそうした視覚を持つにいたったのかについて説明しよう。



 




●オタクの発生

 オタクが発生したのはいつだろうか?

 TVの普及とともに、というのが一般的な答えだろう。もちろん、これはこれで間違いではない。

 しかし実はオタクが数・質ともにぐっと成長したのは、ビデオデッキの発売以降のことなのだ。そんなビデオデッキの発売前に既にオタクだった奴らがいた。ごく少数のこういった人たちが、今では考えられないような苦労をしながらオタク道を極めていたのだ。

 オタクの黎明期、ビデオはもちろんアニメ誌すらこの世にはなかった。

 それでもただ何となく、同じように見えるアニメの中に明らかに違うものを感じ、その差がどうやらスタッフと関連があるらしいことに気がつく「原オタク人」たちがいた。彼らは必死で目を凝らして、大学ノートにスタッフリストを写し、その関連を研究した。

 たとえば『ゲッターロボ』というロボットアニメがある。この作品はガンダム以前の正統派ロボットアニメで、いまだに一部オタクたちの心の原点となっている古典的名作だ。

 この「ゲッターロボ」は作監(通常、アニメ作品は複数のアニメーターが絵を描く。だからそれを一つの絵に統一する作画監督作監が必要だ)によって明らかに絵や雰囲気が違う。

 たとえば作監小松原一男の場合、登場人物達の顔が異常に端正で、美形キャラばかりになる。キャラクターにこだわるタイプのファンには受けがいい。そのかわり動きの切れが悪く、戦闘シーンがタルいという、ロボットアニメとしては致命的な欠点を持っている。

 これが中村一夫だと全然違う。彼が作監の時は絵が汚れている。具体的には、原画の段階で鉛筆でメカに汚しや影を入れているのだ。すると、単にきれいに色を塗っただけのメカより格段にリアルな感じになる。

 作監が野田卓夫の場合、アングルが斜めだったり、極端な遠近感がついていたり、殴ったときに妙な火花が飛んだり、演出方法が独特だ。

 実は、アニメというのは作監によってこんなに変わるのだ。

 こんな風にそれまでは暗号にしか見えなかったスタッフクレジットと作品の関係が徐々に解明されていった。やがて、原オタク人たちの調査は「作監ごとの内容差」だけではなく、原画マンの個性の差にまで至るようになった。

 アニメ誌のない時代に、作監と原画と動画がどう違うのか、解読するのは至難の業だったのはいうまでもない。もちろんビデオもないのだ。原オタク人たちにとってTVアニメの30分がいかに充実した時間であったかが、容易に想像がつくというものだ。



 




ラムちゃん変身の謎を探れ

 原画マンの名前と作品とを理解するキッカケを作ってくれたのは『うる星やつら』だった。

 『うる星やつら』のラムちゃんは、描く原画マンによって全然違う。放映当初は原作者の高橋留美子が描くマンガのラムちゃんに似ているのが上手なラムちゃん、違うのは下手なラムちゃんと原オタク人たちも考えていた。ところが、高橋留美子ラムちゃん自体がどんどん変わる。

 連載当初はペン先の強弱が強く、やや劇画調で殺伐とした印象だったのが、徐々に強弱がなくなってくる。

 小学館コミックス版『うる星やつら』25巻から35巻ぐらいがいちばん人気のある絵だ。ペン先に微妙な表情があるといわれている。

 逆にそれ以降になると、絵にまったく強弱がなくなってアニメみたいになってしまった。現在も連載中の『らんま1/2』は、このようないわゆる「アニメ絵」で描かれている。

 さて、原作の絵自体が変わるため「原作に似てる」だけではアニメーターの力量は評価できなくなってしまった。そこで慣習にとらわれない若いアニメーターたちは、自分の好みをラムちゃんにかぶせて描くようになった。

 西島克彦の描く西島ラムはお尻がでかくて太股が太い。

 森山ラムは顔がかわいく、原作のタッチに忠実だ。

 土器手ラムは胸がでかくて色っぽい。

 一話のTVアニメを描くのに2名〜10名くらいの原画マンが担当する。当然シーンごとに違うラムちゃんになる。どんなラムちゃんがあったかと、スタッフクレジットをつきあわせて頭の中で組み合わせる。

「今回のラムちゃん、初っぱなとCM後の空飛ぶとこはやたらお尻でかかったなあ。前々回のあそことあそこもだ。ということは、あのシーンをやったのは西島さんか・・」

 これはそんじょそこらのパズルよりも難しい。なんせビデオのない時代である。TV放映が終わってしまうと、目の前にはもう何一つ確かなものは残っていないのだ。もちろん自分でノートに写したスタッフクレジットはある。けれども、これだけだったらさすがにオタクみんなが原画マンに注目したりはしなかっただろう。



 




●天才アニメーター金田伊功が刺激するオタク的快感

 原画という存在をオタクたちすべてに知らしめたのが、彗星のごとく登場したアニメーター・金田伊功だ。

 金田伊功の絵は、極端なパースと極端なポーズの連続で、誰がみても一目で「金田!」とわかる。レンタルビデオ店などで『銀河旋風ブライガー』『新サイボーグ009』『六神合体ゴッドマーズ』といった作品のオープニングを見れば、黄金期の金田作画の素晴らしさが判って貰えるだろう。

 動くところは思いきり豪華に動く。ぐるぐるとカメラが回り込んだり、急にぐーんと寄ったと思うとぱっと引いたり、気持ちよく動く。

 しかも、止まるところはぱしっと止まる。たとえ空中で無理なポーズをとったままであっても、いさぎよくピキーンと止まるのだ。

 明らかにディズニーアニメとはまったく違う、日本のリミテッドアニメにしかできない新しい演出法や文法を編み出したと言える。

 これは大きな衝撃とともに、アニメ界に受け入れられ、次々と亜流を生み出した。

 もっとポーズを極端にしてみればどうなるか。

 もっと動かしてみればどうなるだろうか。

 もちろん金田ほどの画力がないため、極端なパースのはずが単に変なポーズになってしまったり、イタズラに動かし過ぎて何が何だかわからなくなってしまうこともよくあった。

 それでもアニメーターたちは毎週と言っていいほど、次々と自己主張と実験をするようになった。それはオタクたちによって常にきちんと見守られ、時には厳しく、時には感動を持って評価されていった。

 今から考えると、アニメスタッフ達と少数のオタクたちの蜜月時代だったとも言える。



 




●近代オタクを生み出したビデオとアニメ雑誌

 少数だった「原オタク人」を急増させ、「近代オタク」に進化させた原因は、アニメ誌の創刊とビデオデッキの普及だ。

 1980年にSL−J9(ジェーナイン)というSONYのビデオデッキ(もちろんβ方式)が発売された。コマ送りをしてもブレない、という画期的なビデオデッキだった。

 このビデオデッキのおかげで、初めてオタクたちは「近代オタクとしてのモノの見方」を手に入れた。まだまだビデオ普及率が5%以下の時代に、オタクたちは食うものも食わずにJ9を買った。金がない奴は友達をそそのかしてJ9を買わせたり、J9を持ってる奴と友達になったりもした。J9を持っているのが立派なオタクとしてのステイタスだったのだ。

 もちろん、J9はおろかビデオデッキすら家にないのが当たり前の時代である。

 たとえどんなにオタクでも、ビデオがないというかわいそうな奴はいくらでもいた。そういう奴等はテレビのオンエア中に画面写真を撮ったり、スタッフリストを大学ノートに書き写したり、テープレコーダーのマイクをテレビにセロテープで張り付けてセリフだけでも録音したり、と涙ぐましい努力を惜しまなかった。

 中には8ミリカメラ(もちろん8ミリビデオではない。8ミリフィルムのことだ)で名シーンを撮影する強者もいた。

 LD全話セットやレンタルビデオ屋の普及してしまった現代では、遥か昔の話に聞こえるかも知れない。しかしそれは、ほんの15年ほど前の出来事だったのだ。

 そんな時代にはアニメ誌も、今と違ってすごく大切だった。どんなに面白くて素晴らしい番組も、終わってしまうと二度と見れない。再放送だって、やってくれるかどうかすらわからない。

 そこでアニメ誌の出番だ。自分が感動したガンダムの第47話「光る宇宙」とかを実際に何十枚かの写真で再現してくれるのだ。

 ヤマトブーム、ガンダムブームの中、アニメ誌が次々と創刊され、成功をおさめたのもそういう時代性が反映されてのことだった。

 アニメブームとは、すなわちアニメ雑誌ブームに他ならない。

 1979年、『機動戦士ガンダム』がオンエアされた頃には、持つものと持たざるものの差はますます重要となってきた。ビデオデッキを持っていない奴は、持っているオタクを見つけて友達になることが最優先課題になった。

 当然、ビデオデッキのある家は毎週上映会状態だ。

 今の30代のオタクたちがいくつものサークルを作っていて、その中での結びつきが強烈なのにはこんなわけがある。

 また、ビデオデッキを買い替えたりLD-BOXを集めることに異常なほどの情熱を傾けるのも、こんなソフト貧乏な思い出が腹の底に染み込んでいるからだ。戦後の食糧難を経験したオジサンたちがすぐに「もったいない!」とか言うのに似ているなあ。

 1970年台後半、世間の流れより圧倒的に早く、次々とオタクたちはビデオデッキを手に入れた。ビデオソフトもほとんど売られておらず、当然ビデオレンタル屋も皆無の時代だ。

 当然ビデオデッキでは好きな番組をエアチェックするための機械だ。『ぴあ』でチェックした上映会に電車を乗り継いで駆けつけ、ノートを取る必要はもうなくなったのだ。

 オタク仲間から秘蔵のソフトをダビングして貰うことも可能になった。

 といっても2台もデッキを持ってる奴なんかほとんどいないので、根性でビデオデッキを持って行って繋いだりもしたのだ。

 気合いの入った著作権法違反行為だと言える。

 ここまでがんばっても、まだまだオタクの天国にはならなかった。

 何しろビデオテープがバカ高い。1時間テープK-60が八千円位した。これでは好きな番組を次々と録画しまくるわけにはいかない。

 テレビシリーズなんかCMを慎重に抜いて、毎週繰り返されるオープニング・エンディングを除いても正味23分はある。断腸の思いで予告編を切っても1時間テープに2.5話分しか入らない。

 これにたとえばヤマト全26話を録っておこうとすると9万円近くもかかる。当然、自分の懐と相談しながら泣く泣く上から次の番組を録画することになる。

「うーん、第12話あんまりよくなかったから消そう」とか「第3話、あと20回見てから消そう」とか考えるわけだ。

 いつかは消される運命の作品だから、一生懸命見る。おまけに何回も何十回も見る。明日、上から別のを録るからと、最後の別れにまた見る。当然すべてのカットを丸覚えしてしまう。

 だからその当時、どんなサークルにも「ガンダムのセリフを全部言える奴」「ルパンに登場した銃器を登場順に言える奴」なんかがゴロゴロしていた。

 当時の僕のサークル仲間で、近畿大学SF研の三輪という男は「スターウォーズのセリフ・効果音・音楽を全て暗唱できる」という技を持っていた。何でそんなことが可能かというと彼はドラマ編・サントラLP(そんなものがあったのだ!)をレコードの溝が擦り切れるほど聞いて、『スターウォーズ』のあらゆる「音」を記憶してしまったからだ。

 三輪はよくコンパなどで隠し芸として「スターウォーズ暗唱」を披露してくれた。最後までやるのに121分(劇場の公開時間と完璧に同じ!)必要、という大ワザだ。しかし他の大学のSF研でも、必ず一人は「同じようなワザ」を持った奴はいたのだから、恐ろしい時代だった。

 こんな集中力の高い見方をしていたもんだから、台詞やストーリーだけでなく、動きのタイミングもすべて頭に入ってしまう。

 たとえばヤマトの主砲発射のシーン。

 バーンと主砲発射。ビームがパーッと伸びて敵艦に命中する。1〜2秒の「タメ」があってから敵艦は爆発・炎上する。

 この少しの「タメ」が、リアルな感じだ。中で火災が起きて弾薬庫やエンジンに火が廻るまでの時間だな、と考えられるようになる。そうすると「ふーん、タメがあった方がリアルでかっこいいなあ」と考えるようになる。

 そんな風に「絵が動くタイミング」にオタクたちが注目し始めた頃に発売されたのが、ソニーのビデオデッキJ9だったのだ。

 コマ送りにしてもブレない、という新機能はオタクたちの心を魅了した。

 何しろコマ送りでテレビアニメをみたら、アニメ誌なんて目じゃないほど自由自在に楽しめるのだ。アニメ作品を実際にコマ送りして初めて「アニメは連続の絵」であることを認識させられたオタクは多い。そして「どの絵をどんなタイミングで」出すかの効果の違いを発見することによってオタクは「匠の眼」(後述)を手に入れたのだ。

 ソニーのβデッキがVHSとの戦いで善戦できたのは「映像にこだわる一部マニア達」のおかげだといわれている。この「映像にこだわる一部マニア達」というのは実はコマ送りに魅了されて大枚はたいてJ9を買った近代オタク人のことである。

 実際、コマ送りだけでなく、βはダビング時の劣化が少なく、明らかに高品位だった。今でもオタク第一世代の人の家に行くと、必ずβのデッキがあったりβのテープがあったりする。ビデオソフトで発売されたり絶対しないような作品が混じっていたりして捨てられないんだな、これが。

 それはともかくJ9のおかげで「何で面白いのかわからん」「何でカッコいいのかわからん」と思っていたことが次々とわかるようになった。

  コマ送りやスロー、静止とビデオデッキは次々と進化した。その進化を支えたのは、アニメや特撮を何度も見たい、止めて見たい、コマ送りで見たい、スローで見たい、逆回しで見たい、と考えるオタクたちだった。

 テープも徐々に安価になってはいたが、それでもCM抜きをするために「ダビングが綺麗なビデオ」が発売されると、オタクたちはさっそくローンを組んだ。ビデオデッキやアニメ誌のない時代、スタッフクレジットをノートに写して修業をした近代オタク人たち。彼らは、数多いアニメ誌とビデオデッキによって、80年代中盤のアニメ最盛期を迎えた。



 




●オタクの動態視力を発達させた板野サーカス

 オタクの数も何十倍にもふくれあがった。そんなアニメ最盛期を経験した近代オタクたちの中から、1人の天才アニメーターが登場する。最盛期にはまだ単なるオタクとして存在していた彼は、やがて危ない体当たり実験や、ビデオデッキの機能をフル活用する修業時代を経て、そのセンスと知識によって天才アニメーターとしてその名を轟かせるようになった。

 彼の名は板野一郎

 「板野サーカス」という名で知られる彼のアニメーションは、空中ブランコのような縦横無尽なスピード感を持つ、独特の魅力を持っている。彼は少年時代、東映の特撮TV『人造人間キカイダー』に出てくるハカイダーの大ファンだった。ハカイダーが乗って走っているバイクからミサイルが発射するシーンに胸をときめかせた。

 実際にテレビの画面を見ると、バイクのフレームからロケット花火がしゅーしゅー出るだけという、結構情けないものなのだ。

 が、彼は考えた。「実際にバイクに乗ってミサイルを発射したら、どんな風に見えるだろう」

 で、彼はバイクの免許を取ったらさっそくフレームにロケット花火をつけて砂浜を走ってみた。

 ロケット花火は案外速度が遅い。飛んでいる花火を自分のバイクが追い越す時がある。空中に静止しているかに見えるロケット花火を後ろから追い越すとき、彼はオタク特有のスーパー記憶力を最大限に働かせて全ての映像を記憶した。

 ロケット花火は思いもかけない様々な軌跡を見せてくれる。飛んでいる花火と自分が同じ速度になった時、目の前をゆっくりと横切るロケット花火を見たことがある、と彼は言う。そんな体験をしてしまった自分は、もうありきたりのミサイルなんか描けない。

 次に彼が知りたくなったのは「戦闘機同志のミサイルの撃ち合いはどう見えるか」ということだった。これを体験するため「両手一杯に50連発花火を持って何人もで浜辺で互いを撃ち合う」、という実験を彼は思いついた。嫌がる後輩アニメーターを無理矢理引っぱり出して、彼は全身火傷だらけになりながら、誰も見たことのない世界を体験した。

 その後も彼の様々な探求心を満足させるため、バイクと花火を使った危ないことを次々と実験した。2台のバイクで走りながらロケット花火を撃ち合う、なんてこともやった。思いつく限りのことをあらかたやってしまったらしい。

 『ガンダム』の監督・富野由悠季の作品『伝説巨神イデオン』の戦闘シーンで、彼のアブナい経験は見事に生かされている。オタクたちの間に「板野一郎」の名前が知れ渡ったのは、このTVアニメによるところが大きい。

 特にミサイルが飛ぶシーンは見事だ。彼のアニメイトするミサイルは、自由自在に飛び回るだけでなく、三次元空間内で飛んでいる感じがする。TVアニメという二次元の窓から、本物の空間を覗いているようなのだ。

板野サーカスは見る方にも運動神経が要求される」とオタクたちは囁きあった。それは、実写フィルムでも特撮でも決して味わえない、板野サーカスだけが持つ醍醐味だ。板野サーカスの最高傑作は劇場版アニメ『マクロスプラス』だ。その中の戦闘シーンは本当にすごい。

 遠くの飛行機は望遠レンズで撮ったかのように固定パースでゆっくりと動き、近くの飛行機は広角レンズで撮ったかのように大きくパースを変えながら動く。

 これが一つの画面上で動いているのだ。

 実際には絶対見られない光景。しかも複雑に旋回し飛び回る戦闘機同志が、ミサイルを撃ち合う。すごいスピードで飛ぶミサイルを、カメラが回り込みながら追いかける。コマ送りで見てみると、ミサイルは途中で急に90度曲がっていたりする。実際にはあり得ない飛び方だ。が、納得力もあるし、そのスピード感が生理的に実に気持ちいい。

 まさに彼にしかできないアニメーションだ。

 オタクたちは彼のアニメを素のままで見て感動し、コマ送りで見て感心し、その偉業を讃えるわけだ。

 こうしてオタクの動態視力はどんどん鍛えられていく。

 オタクたちは板野アニメももちろんコマ送りで見、そのタイミングを観賞する。やがては何コマ目でどう動くのか、彼のアニメーションを読める奴も現れる。そういう奴の中から、次世代のクリエイターが生まれるわけだ。

 金田や板野に限らず、日本のアニメーションは「制限された予算、スケジュール」の中で能力のあるクリエイターが続々登場しつつある。これが今、世界中を席巻している「オタク文化」の底力だ。

 96年2月25日付けの日本経済新聞『メディアあんぐる』で、「誇りうる文化で画一化に風穴を」と題した文章の中で、評論家の堺屋太一氏は、このように書いている。

<偏差値教育によって、個性的で独創力のある生徒は大企業に入れなくなった。そうした人材は今、流行歌、劇画、ゲームソフトの三つに流れており、カラオケ、マンガ、ゲームのブームを生んでいる。この分野には高度な知的水準の若者が集まっている。機会さえあれば、どの分野でも成功しうる才能の持ち主だ。

 教育の規格化は、例えば「挙手は右前方七〇度。指は伸ばす」と決めているところが全都道府県のうち四十一。「指は丸める」は六という具合にまで極端になっている。(中略)

 日木人は、日本発のものは世界に評価されるはずはないと思っている。桂離宮から浮世松まで、外国人が評価したものだけを日本文化と称してきたが、それは違うのではないか。

 漫画こそ、日本が世界に誇りうる独自の文化で、これからもっと世界に浸透していくだろう。マルチメディア時代になれば、コンビューターソフトと結びついておもしろい社会をつくると思う。世界に広がる漫画が、管理教育、官僚文化に風穴を開けてほしいものだ。>

 インターネットの他、ますます複雑・高度化する情報ネットワーク網の中で作品を作り続け、ヒットさせる実力を持つ者はオタク・クリエイターしかいない。

 現に、日本のアニメーターたちは日本よりもアメリカ等海外での評価が高い。本当の国際競争力を持つクリエイターとは、オタクの中からしか生まれないのだ。



 








�-2 オタクの記憶バンク



 




●クロスオーバーするオタクの視線

 僕が考えるオタクの定義の第2項目は、「オタクとは高性能のレファレンス能力を持つ人間だ」ということだ。これは一般の人からさほど違和感なく受け止められると思う。

 ある分野に異常に詳しい人を指して、「あいつはオタクだ」という言い方は、日常的に見られるからだ。

 しかし、実は、この使い方はまったく正確ではない。高性能のレファレンス能力とは、つまり、ジャンルに囚われないという意味だからだ。いわばジャンルのクロスオーバーがオタクの本領なのだ。

 その意味では「アニメ好きだからあいつはオタクだ」という世間一般の評価は、完全に的を外している。アニメだけが好きな人間は単なるファン又はマニアでしかない。単独のジャンルだけに興味を持つ、というのはオタク的な価値から大きく外れている。

 同じく、「ファッション・オタク」「釣りオタク」などもあり得ない。特定のジャンルにしか、興味がない人間はオタクにとって「努力・精進」が足りない奴なのだ。いくらビデオのコレクションが凄くても、怪獣映画しか見ない奴なんてオタクじゃないし、アニメしか見ない奴も「単なるファン」でしかない。

 オタクなセンスというのは、たとえば「アメリカンウェイ」とか「フェミニズム」「エコロジー」みたいなもんで1種の価値観・世界観だといえる。たとえばエコロジーを例に考えてみよう。

 正しいエコロジストの在り方は「環境保全・保護」というコンセプトにそって自分の行動を決めることだ。「クジラを殺すな!」なんてステッカーを貼ったスポーツカーに乗って、排気ガスをまき散らして暮らす、なんてのはエコロジストではない。そいつはただ単に「クジラ好き」だ。

 自然保護・環境汚染・代替エネルギー・リサイクル・非大量消費社会への動き。正しいエコロジストのやるべき事は山のようにある。

 これと同じく、アニメしか見ないオタクはタダのアニメファンだ。クジラのことしか考えない人がエコロジストでないのと同じである。アニメを考え、それを深く追求すればするほど、他のオタクジャンルに無関心でいられるはずがない。

 確かにアニメはオタキズムのホームグラウンドだ。けど、ゲームにも特撮にも洋画にもマンガにもオタク度の高い作品はいっぱいある。で、実はそういった作品は互いにものすごく影響を与えあっている。それをジャンルクロスして見抜き、楽しむのが「オタク的な見方」なのだ。




●『ちびまる子ちゃん』の影と『魔法陣グルグル』の高度なオタクギャグ

 たとえばTVアニメ『ちびまる子ちゃん』には「顔に影が入る」という表現が出てくる。登場人物が「どうせ私なんて・・」とブルーな気持ちになったときに顔や背景に斜線を入れる、という技法だ。これはマンガではよく使われる表現だ。

 しかし、『ちびまる子ちゃん』のスタッフは、それまでマンガでしか使われなかった「背景やおでこにスクリーントーンを貼って暗い表情を表す」という手法をアニメに取り入れた。つまり、「当然、視聴者たちはこの表現を読みとれる」と踏んだわけだ。

 何故か?もう説明は入らないだろう。オタクとは、このようにジャンルをクロスするからだ。

 TVアニメ『きんぎょ注意報!』では、それまで少女マンガの漫符(マンガの符号)として使われていた「頭に流れる汗」を、アニメで初めて使った。しかもマヌケな擬音付きで大々的に。マンガを読み慣れてない人には違和感があったかもしれない。が、それも今や当たり前になった。

 別にマンガの手法をアニメが取り入れる、というパターンばかりじゃない。

 実は、オタク文化というのは、マンガ、アニメ、ゲーム、特撮等々のメディアを越えて互いに引用しあって、その積み上げの中で進化していくモノなのだ。だからたとえばアニメだけ見ていても、その作品を理解できない。

 その端的な例がTVアニメ『魔法陣グルグル』に出てきた「闇の風見鶏」のシーンだ。(知らない人のために説明すると、『魔法陣グルグル』とは、ニケ(勇者・男の子)とククリ(魔法使い・女の子)の二人が魔王ギリを倒す為に旅をしている、というのが基本ストーリーのアニメだ。原作マンガはエニックスという出版社から発売されているマンガ雑誌に連載されている。このエニックスというのは例の『ドラゴンクエスト』を発売している会社で、読者にも当然ゲームファンが多い)

 さて、そのアニメ『魔法陣グルグル』の1シーンに「闇の風見鶏」というものが出てくる。その闇の風見鶏の絵の下に「画面は開発中のものです」というテロップが出る。

 このおかしさをきちんと理解するためには、結構膨大なオタク知識が必要だ。

 まずRPGがどんなものか知っていること。「グルグル」はお話全体がRPG(ロール・プレイング・ゲーム)のパロディになっている。RPGには、それを入手しないとゲームが先に進まない重要アイテムが登場する。「闇の風見鶏」は、そんなアイテムのパロディだ。

 また、『ファミコン通信』等のゲーム情報誌を読んだことがないと「画面は開発中のものです」の意味も分からない。ファミコン通信では、新作情報としてまだ開発中のゲームを紹介することが多い。他誌よりちょっとでも早く、ちょっとでも多くが大切だから、変更するかもしれない画面でも載っけてしまう。そんなときは必ず、画面写真の下に「画面は開発中のものです」と注意書きが入ってる。

 「闇の風見鶏」なんて重要アイテムはたぶん早めに紹介され、この注意書きがついてそうだ。しかも、このアニメの中では登場人物たちがまだ見たことがない「闇の風見鶏」を想像するシーンで出てくる。実は、あとで主人公たちが手に入れる風見鶏とは全然違うというオチまでついている。

 こういったことをすべて瞬間に理解して「笑う」為には相当の教養がいる。オタク度の高いギャグなのだ。子供はもちろん、フツーのアニメファンにすらわからないはずだ。




●『クレヨンしんちゃん』に見るオタク業界裏事情

 『クレヨンしんちゃん』の「アクション仮面」の話もジャンル・クロスオーバーだ。TVアニメ「クレヨンしんちゃん」の作品内では、主人公の5才児・野原しんのすけはTV特撮シリーズ「アクション仮面」に熱中している。もちろんこの「アクション仮面」というのは、番組内でしんちゃんが見ているTVに登場する、いわば劇中劇ヒーローだ。

 さて、しんちゃんが大好きなアクション仮面が終わる話が、だいぶ以前に放映された。それから数カ月後、しんちゃんの見ているテレビの中ではアクション仮面Zの放映が始まった。

 ここでまず「オタク業界の法則その1・子供向けヒーロー番組は、人気が出ると必ずタイトルにブラックだのスーパーだのを付け足して次々と作られる」、というパロディにオタクたちは苦笑。

 アニメは次にしんちゃんがこのアクション仮面Zのパンツを買ってもらい自慢しまくる話に続く。ここでまた「オタク業界の法則2・ヒーロー番組がブラックだのスーパーだのとタイトルを新しくする裏には、おもちゃ屋はじめ文房具屋だのパンツ屋だのの陰謀が存在する」という鉄則を感じてまたまた爆笑するわけだ。

 これも子供にもフツーの人には判らない。案外次々とおもちゃをほしがる子供に悩まされているお母さんたちには判るかもしれないが(彼女たちには笑い事じゃないけど)。

 これらのジャンル・クロスオーバーな遊びは、作る側も見ている人のほとんどの人にはわからないと承知で発信している。そういう意味では日本全国に潜んでいるオタクたちに向けた暗号だとも言える。オタクたちもそれを知っているから、作品の細かいところまでこだわってみて、暗号を見逃すまいとする。見逃した奴がいては大変とばかり仲間内に連絡を回すことも怠らない。

 これはオタク特有の現象だ。オタクではないジャンルの人、たとえばJリーグが好きな人は、サッカーの試合や選手だけに興味がある。だからサッカーのアニメで、サッカー雑誌のパロディなんてやらない。もしやってもJリーグファンは誰も喜ばない。めざといオタクは見つけて喜ぶかもしれないが。

 逆にオタク達はメディアにこだわらない。むしろ、別のメディア同士を結びつけて楽しんだりする。これは後でも説明するけど、この態度は作品そのものを崇拝してしまう「ファン」には絶対できない芸当だ。腹の底のどこかで、その作品をつくった人たちよりも自分を上に見ている、イヤな奴、それがオタクだ。




●オタクの向上心と自己顕示欲

 ここまでで、オタクという人種の輪郭が少しは理解いただけたと思う。映像の時代に過剰適応した視力と、ジャンルをクロスする高性能なレファレンス能力で、作り手の暗号を一つ残らず読み取ろうとする、倉欲な鑑賞者なのだ。

 しかし、これだけでは、画龍点晴を欠く。その最後の「眼」が、オタクの定義第3項目の、「飽くなき向上心と自己頭示欲」だ。

 たとえば、どんなに『魔法陣グルグル』が好きで毎週見ていても、その行為はファンのものでしかないことはすでに述べた。それが、全話CMカットして録画したり、挿入歌CDを買ったり、アニメ雑誌の『グルグル』の記事を丸暗記したり、関連商品を買い占めはじめるとオタクへ一歩踏み出したといえる。

 ただしこれは一歩間違えば単なるコレクターやマニアになってしまう。

 グルグルを、類似作品、たとえば「赤ずきんチャチャ」や「レイアース」と比較し始めたり、スタッフクレジットをチェックし始めたりすると、オタクにリーチがかかったといえる。

 やがて、彼の頭の中の知識が熟成して友達に彼なりのグルグル論・アニメ論・演出論を語り始めたときが、彼のオタクとしての第一歩なのだ。その論がいかに幼稚で、他で聞いたようなものであろうと、今までの見て楽しむだけ、集めたり研究するだけの彼とは明らかに一線を画する行為である。

 そして、彼が他の人をうならせる為だけに、人の見ないマイナーな番組や古い番組をチェックし始めたり、中世魔導書の研究のためにヨーロッパの城塞都市に取材に行ったり、グルグルのパロディマンガやグルグル論を同人誌に書き始めたら、彼はオタクとして立派に成長する過程に入ったといえるだろう。

 才能だけではオタクにはなれない。オタクになるためには、天文学的な経済的、時間的、知性的投資を必要とする。努力と精進、そして底顕示欲が門を開ける鍵である。

 おわかりだろうか?オタクとはこのように「オタクの定義だけでも3時間喋る奴」の別名でもあるのだ。




●濃いオタク・薄いオタク

 そんなオタクにも上下がある。オタク度は「濃い」「薄い」で表現される。濃い、というのはオタク文化に対する「情熱が激しい」と言う意味か。単に「好き」とか「面白かった」では終わらない、終われない、ありあまる気持ちとも言える。

 オタク道を極めるために、何を犠牲にしているかも重要なチェックポイント。クーラーはなくても『戦え!超ロボット生命体・トランスフォーマー』のLD−BOXがあるような人は「本当に濃い人」だ。

 もっと具体的に、僕が超一流のオタク、と尊敬するS君の悩みを通して「濃い」とは何かを説明しよう。

「あ〜あ、今年はクーラー買うてしもたおかげでトランスフォーマーのLD−BOX買われへんかった。ワシもまだまだやな」

 彼が自分を「まだまだ」と評しているのは、お金がなくてLD−BOXが買えなかったことではない。彼の悩みはお金では解決しない悩みなのだ。

 『戦え!超ロボット生命体・トランスフォーマー』は普通のオタクにとっては、あんまり面白くないアニメだ。しかしS君のような一流のオタクにとって、この作品は見るべきところさえ判っていれば素晴らしい作品なのだ。

 無意味に盛り上げるナレーター。『巨人の星』の父ちゃん声の悪役。コンボイ司令官の説得力のない説教。何も考えてないアメリカンな脚本。

 S君ももちろんその良さが理解できる。だからLD−BOXを買わなけりゃと思う。いや、立派なオタクの自分は「いても立ってもいられないほど欲しくなるはず」なのだ。しかし今年の猛暑の日々、電気屋の店先でクーラーをつい買ってしまい、LD−BOXの予約期間を逃してしまう、という失態を演じてしまった。

 なぜだ。もうオレはダメなのか。

 彼は自分のその情熱のなさ、濃くない態度に「まだまだ」と思う。そして自分はなぜ、もっともっと濃くなれないのか悩む。「好き」というだけでアニメを見ているわけではないのだ。もっと濃く、もっと深くを目指して日々、精進する。これこそがオタクの道である。



 








�-3 オタクが情報資本主義社会をリードする



 




●オタクはなせ子供番組を見るのか

 オタクの定義がわかったところで、オタクに対する疑問を解くことからはじめて、最後にはオタクこそが、情報資本社会をリードするという結論にいたることが、この項の目的だ。

 たとえば、もっともポピュラーな疑問、「どうしてオタクは、いい年して子供番組なんか見ているのか」。

 いい質間だ。なぜなら、これは人がいつオタクになるのかという間題でもあるからだ。

 5歳の子どもが子ども番組に熱中していても何の問題もない。8歳でも大丈夫。でも、18歳だと絶対マズい。15歳でもそろそろ親は心配するぞ。

 ということは、たぶん10歳から15歳くらいの間にたいていの人は子ども番組を見なくなってしまうわけだ。そのターニングポイントで、大人番組へ完全にシフトしきれなかった人々がオタクになるといえる。

 オタクたちに関して、よく世間では大人になりきれない精神年齢の低い奴等、という見方をされる。が、そんなはずはない。もし単に精神年齢が低い、幼いだけなら子ども番組離れが他人より3〜5年遅れる程度の問題だけのはずだ。

 30歳になっても大人になりきれないというのは相当無理がある。少なくとも、知能レベルが10歳以下であるか、自閉症のように社会把握能力が極端に欠けているかといったよほどの事情がない限り、30歳になっても大人になれないなんてことはあり得ない。

 このことは現実的にオタクたちを見てみると明白だ。

 興味深い資料を、大塚英志氏の『仮想現実批評』から引用してみよう。

<広告代理店の依頼で<オタク>についての調査をした。(中略)

 例えば<オタク>は一般の人々に比べて異性の友人の数が多い。十代及び二十代の平均では2.8人であるのに対し、<オタク>は6.9人と実に2倍以上である。また男女を問わず、友人そのものの数も多く、社交的である。(中略)

 また<オタク>は総じて金持ちである。二十代の<オタク>の月収が平均22万7千円であるのに対し、一般の二十代の平均月収は16万6千円である。(中略)

 エンジニアとか医師などが結構目に付く。またその高収入の中から相当に高い割合で思い切りよく遊びに使うのも<オタク>の特徴だといえる。その他にも<オタク>は一般の人々に比べてテレビの視聴時間が異常に短い、<オタク>は趣味の数が多い、<オタク>はなぜか「堕落」という言葉が嫌いである、といったこれまでの<オタク>像とは相反するデータがいくつもある>

 いかがだろうか?彼らは決して「大人になれないかわいそうな奴等」ではないのだ。

 ではなぜ「30歳すぎてアニメ」なのか?

 答は簡単だ。オタクは小学生ぐらいの時に、TV番組に対して見極めをつける。

「大人番組といったって、子ども番組と実はたいして変わらない」

「子ども番組の中にもレベルの高いものがある」

 この早熟で、冷静な判断が彼らにアニメを選択させる。

 つまり彼らは「自分も早く大人になりたい、大人に見られたいから大人番組を見る」という単純な考え方をしないだけだ。

 思春期に入っても、オタクの判断力は衰えない。マスコミが作った「ダサい大人じゃなく、かっこいいヤングのファッションはコレだ!」なんていう、若者文化・サブカルチャーには騙されないのだ。

 彼らはターニングポイントである10歳から12歳の時点で、大人文化という形にも惑わされないし、思春期にも若者文化という形に惑わされない。結果として、いわゆる「あてがわれた文化を追いかける、消費者としての若者層」に入りきれないので、今までマーケッター達も分析できなかった。

 オタクとは自分で自分の好きなものを判断する、早熟で知的な存在なのだ。

 だから彼らはファッションや流行にも流されない。

 「オタクのファッションがダサい」とよく言われるが、事実は「あんなマスコミが作ったような流行に踊らされるのはバカだ」と決め付けているからだ。(もう一つ、重要なファクターとしてオタク文化の思想的根拠となっている「職人文化への憧れ」は章を改めて論じよう)

 総じてオタクたちは、別に社会からの「大人になれ!」というサインが感じとれないほどのバカではない。

 その圧迫をはねのけるほど自信家で「30すぎてアニメ見たからって何が悪い!」という気持ちと「へっ、おれって30すぎてアニメ見るような奴なのさ」という気持ちを両方持ってる、ナイーブでヤな奴なのだ。




●マーケットリーダーとしてのオタク

 自信家でナイーブなオタクたちは「大人になれないかわいそうな奴」どころか、今や世界の文化をリードしつつある。

 アパレル業界で、マーケティング・商品企画を担当していたという経歴の持ち主・荷宮和子は『オタク少女の経済学』でこう書いている。

<「オタク少女はボリュームゾーンをリードする」

 これがこの本のテーマである。今では、ボリュームゾーンと呼ばれる層は、自ら何かを求めようとはしない。オタクの後ろをついていっているだけなのだ。まんが・ゲーム・ファッション・音楽……様々な分野の状況からそれは明らかである。>

 アパレル業界でボリュームゾーンと呼ばれる人々、世間がフツーの人と呼ぶ人々は今や何も欲しいものがない。つまり何が欲しいか、何が楽しいか、何がしたいかわからなくなっている。

 それが証拠に彼ら、彼女らの口癖は「何かおもしろいことない?」だ。

 世の中がつまらなくなった、というわけではない。世の中にメジャーな流行がなくなっただけだ。今までだったら、ちょっと周りを見回せば猫も杓子もやっている「楽しいこと」が必ずあった。ディスコ、サーフィン、テニス、ユーミン。が、今や「これ!」というのがない。どれ一つとっても、半分以上の人は「興味ない」というものばかりだ。マスコミまで「価値観の多様化」と言って、流行をつかまえたり先取りしたり生みだしたりという作業をあきらめてしまった。

 他人のやっている「おもしろそうなこと」を真似してきたボリュームゾーンの人々は道を失って呆然としている。誰でもいい。「これは絶対おもしろい!」といってくれるものに飛びつきたい気分だ。

 それに比べ、オタクたちは「社会適応力がない」とまでいわれるほど、自分の「おもしろい」に敏感で忠実だ。いつもおもしろいものを見つけ、楽しんでいる。




●現代オタクの情報分析能力と発信能力

 オタク進化論の中で、僕は「原オタク」が「近代オタク」に進化し、そこから優秀なクリエイターが生まれてきた歴史、また生まれてくる可能性を示唆した。それは今後も続くだろう。

 しかし今、オタクたちはもう一つの進化の段階を経つつある。それを僕は「現代オタク」と名付ける。

 最近の流行はオタクたちが火付け役なものが目につきはじめた。ドラクエセーラームーン、パソコンなど、すでに流行の発信源はオタクたちに移りつつある。

 よく雑誌なんかではこれからの高度情報社会、マルチメディア社会ではソフトが大切になる、ソフトを作るクリエイターがいちばん偉くなるとかかかれているが、これは大嘘だ。国民みんなが小説家なんて国があるはずがない。それより求められるのは、情報の価値を決めてくれる人だ。

 今程度の情報社会ですら、フツーの人はどの情報を選んだらよいのか、誰のいうことを信じたらいいのかわからず困っているのだ。

 「僕はこの辺がこうおもしろかった」とか

 「君にはこれがおもしろいと思うよ」とか、コーディネイトしてくれる人、膨大な情報の中から自分の性に合う価値観、過ごし方、遊び方、ジャンルを教えてくれる人を求めている。

 実はそういう人こそこれからの情報社会、マルチメディア社会では大切だし、自分が作りたいものを作るクリエイターたちより偉くなれるに決まっている。成熟した経済社会において、いちばん力を持っていたのは生産者・製造者ではなく流通だ。映画は興業元が、出版も流通がいちばん強い。

 同じように、これからの情報社会においてはソフト自体の価値や品質を見極め、ぴったりの人々のお手元に届けることができる人、頼りになる批評家であり、コーディネイターたりうる人々、こういう人々がマルチメディア時代の最終勝者となりうるのだ。

 そして、まさにこうしたコーディネイトの能力を持ち、発信していくのが「現代オタク」たちなのだ。




●ゲームをめぐる子供たちの壮絶な情報戦

 一つの例を挙げよう。

 96年の3月頃、僕が吉祥寺駅近郊の中古ファミコンショップで耳にした、小学生たちの会話だ

堀井雄二がとうとうエニックスの取締役になった」

スクウェアプレイステーションファイナルファンタジーを出すそうだ。任天堂スクウェアの株の25%を持っているというのに、どうなってるんだ?」

 僕は、これを聞いて「こりゃすごい! こいつら今に、いいオタクになるぞ」、と感心した。

 もちろん、これは別に吉祥寺だけに限ったことではない。東京中、いや日本中の中古ソフトショップ前で、こんな会話が交わされている。子供達がこんな事を知っているのは、子供向けのファミコン雑誌にこういう記事が載っているからだ。

 ファミコン雑誌なんか、どうせゲームの攻略法が載っているだけだろう、と考えがちだが、実はそうでもない。何と言っても読者が知りたがるのは、発売前のゲームの評判だ。ところが、発売前だと秘密も多いし未決定事項も多い。いきおい、ゲームそのものより、その周辺情報でお茶を濁すことになりがちだ。

 そこで登場するのが、開発チームへのインタビューだったり、会社周辺の情勢だったりする。内容も子供向きとは思えないほどのレベルの高さ、手加減なしなのだ。

 そんな難しい記事を、何故子供がすみからすみまで読んで覚えているのか?

 実は、それは今までのつらい体験があるからだ。

 というのも、子供達は騙され続けてきた。そのつらい体験は、先輩から後輩へ語り継がれ、彼らのゲームを見る目はどんどん研ぎすまされていったのだ。

 オモチャ屋の店頭で、ゲームのデモ画面を真剣に見ている子供がいる。大人は、つい昔も今も子供はああやってショーウインドウにへばりついて見るんだなあ、と微笑ましい気分で眺めているかもしれない。

 が、実はこの見方に根本的な誤解がある。

 たしかに昔の子供は「欲しい」とか「おもしろい」で見ていた。しかし今の子供は違う。騙されまい、とチェックするために見つめているのだ。

 何をチェックするのか?

  新発売のゲーム機用ソフトが、どこまでゲームセンターのゲームと同じか、どこがダメか、という点についてだ。これを子供たちはあらゆる情報を集め、実際に自分の目で店頭デモを見つめて判断する。

 基本的に最新のゲームは、ゲームセンターにある。これらは「アーケード・ゲーム」と呼ばれ、専用のコンピューター・チップを搭載した超高級ゲーム機だ。こういうアーケード・ゲームを、たかが4〜5万円の家庭用ゲーム機に作り替えると、当然簡略化されたものになる。具体的には、立体を表現するポリゴンの数が減ったり、スピードが遅くなったり、色数が減ったりする。だから店頭で宣伝される家庭用ゲームは、アーケード版をどこまで忠実に再現できているか、が評価のポイントになる。それを、同じ『バーチャファイター』だから、という理由で買うと大失敗することになるのだ。

 なんせソフト1本でも1万円位もするのだ。

 一ヶ月のお小遣いでポンと買える額ではない。自分にとって納得のいくおもしろいゲームか、きちんと見極めねばならない。

 しかも、さらに重要なのは、後で中古ソフト屋で高く売れるかどうか、だ。人気の出る、よく売れるソフトは中古屋でも高値がつく。一万円のソフトも、人気が高ければ一週間後に七千円で売れる。三千円で遊べたことになる。

 これがつまらないゲーム、いわゆる「クソゲー」だと、一週間で中古市場価格は二千円にまで落ちる。下取り価格のいいゲームの、二倍以上・八千円もかけてしまったことになる。

 この見極めは本当に難しい。大の大人でさえ、自動車を買うときにこの問題で悩む。本当は自分の好きな車を買いたいのだが、中古価格を考えてつい、トヨタの車を選んでしまう。それも白い色の。

 子供たちは、それよりもっと複雑な問題に悩まされている。

 この問題をさらに複雑にしているのは、ゲーム機選びだ。

 これを間違うと、ソフトを間違える以上に致命的だ。どんなにゲーム機の性能が良くても、普及しないゲーム機を買ってしまうとその後ソフトがほとんど発売されないからだ。

 たとえば、ファミコンが全盛の頃、セガマーク�が発売された。ゲーム機としてはファミコンより性能が良く、色もきれいだった。発売当初はソフトもいいものがあった。

 といってもソフト発売数は、ファミコンより圧倒的に数が少ない。結局セガマーク�はあまり売れず、2〜3年もすれば押入行きとなってしまったのだ。

 お小遣いの少ない子供にとって、ゲーム機はクリスマスや誕生日にねだる最上級のものだ。それが失敗したとなっては取り返しがつかない。

 おまけに一度失敗すると、親は「前も買ってあげたのに遊んでないでしょ?」と買い直しがものすごく難しくなる。

 じゃ白のトヨタ車みたいな「定番」をいつも選べばいい、というわけにもいかない。ゲーム機の世界では任天堂トヨタみたいなもんだ。しかし、その任天堂の新製品にも『ファミリー・ベーシック』『ディスクシステム』『サテラビュー』『バーチャルボーイ』など、失敗作が目白押しだ。

 任天堂日経新聞でしか知らないオジサンたちにとっては、連戦連勝の大安全パイに見えるかも知れない。しかしリアルな世界に生きる子供たちにとっては、けっこうアブナい新製品を出す会社なのだ。

 こういった恐ろしく難しいことを判断するため、子供達はすみからすみまでファミコン誌を読む。

 たとえば「PCエンジンのCD-ROMアクセス速度が遅い遅いと言われていますが、ハドソンの天外魔境ではシークタイム四秒を実現しました」

 、と載っている。するとオタク予備軍の子供たちは、こう考える。

「ふんふん、CD-ROMの読み込み時間が遅いのは有名だったけど、ここまで縮んだか、なるほど。じゃあ、PCエンジン、買ってみようか」

 アクセス速度が縮んで快適にゲームができるから、だけではない。

 ここまでの技術があれば、内容も信頼できるだろう、と予測する。

 これなら他の奴等も買うだろうから中古屋でも高く売れるだろう、と判断する。

 大人が車を選ぶとき、エアバック標準装備だの、ABSだののスペックをチェックするのと同じだ。オタクたちが新しいパソコンを買うときにカタログを取り寄せ、そのメーカーの将来性まで見切って買う行為と全く同じなのだ。

 現在ゲーム機に関しては、任天堂の一人勝ち状態といわれている。だから、任天堂の出すゲーム機なら間違いないと宣伝する。

 ファミコン雑誌はそれを真に受けて、たくさんのページを割く。が、今の子供達は疑い深い。

 たとえば、この前『サテラビュー』という新しいゲーム機が任天堂から発売された。なんと通信衛星から直接ゲームを配信するという超ハイテクなゲーム機だった。ファミコン雑誌は一斉に誉めまくった。10年前の子供達なら何十万人も買ったであろう宣伝攻撃だった。

 が、実際は発売数カ月で数千台しか売れなかったと言われている。今の子供達はよく知っているのだ。ファミコン雑誌では、たとえば発売前の商品の悪口は載せないことになっている。発売されたら、手のひらを返したように批判が載ることもよくある。

 あらゆるゲーム雑誌の「表四」と呼ばれる裏表紙部分には、必ず任天堂の広告が載っている。そして任天堂のゲーム機や、ソフトに関していつも雑誌は遠慮がちだ。どんなソフトも悪口は載らないし、特ダネスクープや抜け駆け情報もない。

 何となく圧力がかかってるらしいことを感じているのだ

 『ドラクエ』の情報操作は有名だ。発売元のエニックスから全ゲーム誌にお達しが来る。

「今週号は『ドラクエ』発売三週目だから、ここまでの情報はOK」

 これに逆らったり抜け駆けしたりすると、以後エニックスから一切のゲーム情報は貰えない。当然、ゲーム誌は気を使いまくる。だから批評するときも、大手ゲーム会社に関しては手心を加えざるを得ない。

 そういうことを何となく感じて、ファミコン雑誌を読んでいるのだ。

 任天堂から『バーチャルボーイ』という立体ゲームシステムが発売された時もそうだった。『マリオ』や『ゼルダ』といった古典的名作かつ大ヒット作を作った任天堂のゲームプロデューサー・宮本茂氏が先頭に立って宣伝した。

 彼は、ポール・マッカートニーがサインをもらいに来たというほど、ゲーマーにとっては神様的存在だ。その宮本氏が、雑誌に登場して新しいマシンの意義を熱く語ったのだ。オマケに『バーチャルボーイ』と同時発売でマリオのソフトを出すという気合いの入れようだった。

 しかし『バーチャルボーイ』は全然売れなかった。

 宮本さんは任天堂の取締役だ。誉めるのも当然、と子供の目はシビアだった。

 あるいは最近、スクウェアというソフトハウスが、次回作のRPGをプレイステーションで出すと発表した。スクウェアといえば『ファイナルファンタジー・シリーズ』というRPGが代表作。その最新作をスーパーファミコンでなく、ソニープレイステーションで出すというのだ。

 これは業界だけでなく、子供達にも大きな衝撃を与えた。

スクウェアの株の25%は任天堂が持っているのに、ソニープレイステーションとは!!」

「ということは、スクウェアはよほど本気でプレイステーションに賭けているのだ!」

「その昔、プレイステーションの開発チームがエニックスに「うちのソフトを作って下さい」と頭を下げに行ったときは「300万台売れてから来て下さい」と門前払いだったというのに!」

「こりゃ、ちょっとプレイステーション購入も検討してみた方がいいかもしれない」

 記事を事実や数字と評価とにわけて読む。

 書かれていないことの、書かれていない意味を考える。

 いわゆる行間を読むという奴だ。

 これが「情報が溢れる社会」に育った現代オタクたちのサバイバルなのだ。

 もちろん、ゲームをする子供のすべてがこうした情報収集をしているわけではない。情報収集能力と価値判断力の能力差に基づいて、そこにはヒエラルキーが自ずと生じる。どのゲームを買うべきか知っている子供は、もちろん尊敬を集める。彼らの判断が子供たちのクチコミ・ネットワークを通じて下方に伝達されるのだ。

 彼らはすでに「現代オタク」を生きているのだ。




●世代別オタクのホームポジション

 ここまでで、オタク進化論は、一応の完成を見た。

 その進化の痕跡は、同じオタクでも生まれた年代によって守備範囲の中心、いわゆるホームポジションの違いとして、形をとどめている。

 昭和30年代生まれなら特撮、前半はウルトラマン、後半は仮面ライダーホームポジションだ。

 昭和40年代はアニメ、ヤマトとガンダムだ。

 昭和50年代は模型、ガンプラガンダムのプラモデル)にミニ四駆。これにゲームも半分入っている。

 昭和60年代生まれの今の子供達は何といってもゲーム。現在のゲームを楽しむ側として大変厳しい状況の中で、彼らの眼はどんどん鍛えられている。

 たとえば、僕は昭和30年代生まれだが、単に怪獣が好きで「スペシウム光線」とか「ライダーキーック」とかやって友達同士遊んでいただけの奴で、ちゃんとしたオタクになった奴など見たことがない。

 頼まれもしないのに怪獣の名前を暗記してみたり、少年雑誌のグラビアを破って大切にしまって置いたり、少ない小遣いで怪獣のソフトビニール人形やソノシート付き絵本を買い集める。

 そういう子供達は成長すると自分たちのホームポジションの周りに、アニメ、マンガ、特撮といった他のジャンルがあるのに気がつく。そしてそれらをクロスオーバーさせて語り、楽しむようになる。

それがオタクだ。

 今の子供達の中でも、ゲーム誌の文字の部分など読みもしない奴も大勢いるだろう。が、その中で過去の選択を反省し、現在のゲーム業界の状況を把握し、自分なりの視点を持った子供たちは大勢いる。そんな、ちゃんとしたオタク予備軍が大勢育ちつつあるのだ。

 あと10年したら彼らも社会人として大きな購買力を持つようになるだろう。

 あと15年〜20年で、彼らの中からオタク業界で活躍する多くのクリエイター達が生まれでることだろう。かたや、溢れる情報の価値を見極め、コーディネートし、発信し、市場を左右するオタク・エディターが出現するだろう。

 彼らは情報の海の中で進化し、勝ち残ったニュータイプなのだ。



 






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