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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

中東激動の中「オスマン帝国500年の平和」を読んだメモ

イラクやシリアで、「国獲り」というにはなんとも陰惨すぎる形だが、本当に国家や武装勢力合従連衡しつつ、内戦がますます激しくなっていく様を目の当たりにしている。
それが理由ではないが、

オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)

オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)

を読みました。
直接的には、この映画が上映され、見に行ったことが興味再燃の理由。

最大・最後の「東西文明大戦」? オスマン帝国vs神聖ローマ帝国、「第二次ウィーン包囲戦」描いた映画が、有楽町で上映中。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140511/p3
 
上映終了間近。「神聖ローマ、運命の日 オスマン帝国の進撃」見た感想 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140515/p2

以下、感想。

・まず看板には多少盛りありで(笑)、500年の平和といいつつも戦争ばかりだった(笑)。ただまぁ、言いたいことは基本的に衰退期に入るまでは、いつも対外戦争を辺境―つまり首都など中心部から外で行うことで、イスタンブールが脅かされるような危機をほとど体験しなかったこと、ヨーロッパの大規模な戦争からは比較的距離を置いていたこと(宗教の違いからすれば当然ではあるが)、そして何より、イスラム法の下での異民族統治に一定の安定があったこと、などの点。それを意味しているのが本の表題ってことだろう。
 
・そういう点では、ある程度並立期間が長かった、徳川幕府との類似を考えつつ、その差異を見ていくといいかもしれない。イニチェリを、王の直属軍ということで「旗本八万騎」と考えてもいい。
 
・ところでオスマンをはじめ中世・近世イスラム体制が異教徒に寛容だ、という話は、たしかに同時代的には圧倒的に正しいけど、基本的にはユダヤキリスト教徒など「啓典の民」への寛容であり、その場合イスラム教が「わしらユダヤキリスト教を『受け継いで』『発展&完璧化』しましたで。だからあんたらは不完全やけど、あんたらはがんばった先輩…親戚筋や」という立場なのに対してキリスト教側は「うっせー、お前らなんか親戚じゃねーし」という立場。そこに格差が出来るのはある意味構造的なものとはいえる(笑)。それでもすぐれたスルタンなどはそれを超えた公正さや寛容さがあり、全体として同時代のキリスト教よりも開かれていた、とは思う。
 
・歴代スルタンの個性がいまさらながら面白い。派手好き、独裁者、享楽者、傀儡、学問好き…やはり将軍家などと同様、並べていくとその時代や、それぞれの関係性が面白い。
最近話題を呼んだ伝説のパロディ

ジャンプの巻末コメントが徳川将軍だらけだった場合 - ユーモア妄想メディア「ワラパッパ」 http://warapappa.jp/archives/1594779.html @warapappaさんから

というのがあるが、オスマン王朝のスルタンでもできるぞこれ(笑)。
伝説的な「新スルタンが即位したときは、兄弟は後継者あらそいをふせぐため自動的に処刑される」という話の真偽もわかった。
 
・「人間が奴隷になる話」―断片的な随想と雑感 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140602/p4 で書いた「スルタンの奴隷であるが、それゆえに権威や権力を持つ」という身分の仕組みについても、イェニチェリを中心によく分かった。そして長年平和が続くと「王の近衛部隊」から真っ先に惰弱化、文化化していって、その爛熟が弱体化の一方、都市の繁栄や文化を形作る、とうことらしい。ますます旗本=イェニチェリだ。
 
・ただ一方で振り返って違うのは、オスマンで…さらにいえばローマ帝国でも一般的だった「近衛軍団が擁立した、彼らに人気のある往時が次代の後継者になる」という仕組みは江戸ではなかったなあ、と。旗本に近衛軍団としての実質がまるでなく、そこはさらに「平和的」だったからかな、日本は(笑)
 
・その土地から税金を取る権利を公売し、買った人が自分の才覚でそこから税金を取りたてて元をとる「徴税請負制」、学校の歴史の授業では苛斂誅求を極めた、と聞くがそうでもないらしい。むしろ封建的領主がずっと各地を支配する仕組みとくらべてどうであったろう。
封建領主的な、騎士に土地を封じる「ティマール制」もあったし、遡ると、戦のときに略奪のみを報酬に軒先を借りて参陣するフリーの騎士制度もあったとか。
 
・「魚は頭から腐る」というのは、オスマンのことわざらしく17世紀初頭の政治論「キターブ・ミュスターブ」という本にも「先祖の代からの言葉」とされて紹介がある。

 
オスマンといえば、ハプスブルグやロシアとの抗争ばかりクローズアップされがちだが、東方イラン、イラクなどの地域を脅かしたシーア派の「サハヴィー朝」との抗争も長く続いたらしい。まあそれは辺境支配から在郷地主層が離反する、という意味合いが強いらしいが。またオスマン以上の遊牧、騎馬の民との抗争でもあった。
いまでもスンニ派シーア派の政府や武装勢力を批判するとき「サハヴィー朝の末裔」的な言い方をするそうな。
 
・以前、別の本で「オスマンのスルタンたちは、自分を『ローマ皇帝の後継者』と見なしていた」という一節があり、その自己認識のスケールの大きさに驚嘆したものだったが(異教なのに!!)ある意味ビザンチンを滅ぼして首都をそこにすえたのだから当然っちゃ当然か。というか今回の本によると、ローマ皇帝どころか「アレクサンダー大王の杖を受け継ぐもの」という称号を自らメフメト二世らは名乗っていたのだという(笑)。この世界的精神!!!
 
オスマン帝国は最後に、近代化を西洋列強の圧迫や蚕食に警戒しながら進める、という点で日本や中国、朝鮮などと共通していて、それゆえに興味深いのだが、そこで「種痘の需要」がひとつの共通比較点になるんじゃないかと思い至った。あとで研究したい
 
・この本にはオスマンを彩る「詩」の翻訳がいろいろとあった。これも資料として使える。詩に出てくる比喩や例示、修辞の個性は、文明の違いを際立たせてくれる。



・・・・・・以上、もっと面白く、流れを創った紹介もできなくはなかったのだろうが、ついつい断片的な紹介となってしまいました。