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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

夏目漱石「こころ」に関する学者の論争が、シャーロキアンの議論にくりそつで笑った…フィクションの設定論争いろいろについて

まずことしは夏目漱石「こころ」100年で、もと掲載紙の朝日新聞では、当時の形式で再掲載してる。大デュマもそうだが、初出の形式に切り分けると、ちゃんとその回その回で盛り上げて、次の回へ引っぱっているそうで。


このように、ネットでも読めます

夏目漱石 こころ - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html

それはそれとして。
最近小谷野敦氏のこの本を読みました。

現代文学論争 (筑摩選書)

現代文学論争 (筑摩選書)

自分はそんなに現代文学に興味は無く、偶然手に取ったのですよ。もちろん中で一章を割いて「こころ論争」のことが論じられてるとは知らなかったし、そもそもこころ論争なんてのがあるとは知らなんだ。「めぞん一刻」で、登場した女生徒が真剣になって是非を論じるシーンはあったような気がするけど(笑)。


この「こころ」論争、同書から要約するのは面倒だから、どこかのサイトを引用しよう・・・と思ったが「こころ」は一般用語であり、「こゝろ」の表記もあったりでなかなかない。

小谷野氏の要約を、さらに要約すると・・・誰が言ってるか、は略す。

「私」は残された「先生」の妻と結ばれた説

「こころ」の結末は実は、亡くなった先生の奥さん・静と「私」がその後男女関係になる、というものである

「私」が、死に掛けている父親を置き去りにして上京する点、「先生」が静を置き去りにして自殺してしまう身勝手さ、「先生」から公表してはいけないといわれた遺書が、ここで公表されているのはおかしいという点を挙げて、「先生」は「私」に静を託したのであり、だから、「私」は静を救うために駆けつけたのであり、「私」は静と結ばれてのち、「先生」の遺書を公表しているのだと説明することになる。

※そういう主張の一例。同書でも紹介されている

http://umi-no-hon.officeblue.jp/emag/data/hata-kohei05.htm
『心』という作品は、小説内部の建前として、「私」が、自分の手記(上・中)を、「先生の遺書」(下)に添えまして、世間に、公表していることになっています。「先生」は遺書の最後に、遺書を公表するのは構わない。しかし「妻」の思いは純白に保ってやりたいと、つまり「見せるな」という重い禁忌を、「私」に科しております。それでもなお、ともあれ、大正三年の春から秋へかけ、遺書や手記の公表が、現に、作品『心』として、世間の目に触れているわけです。…これは、いったい…どういう状況なのでしょう。

奥さん(静)とその母親は、最初から「先生」との結婚狙い。Kとの三角関係は計算どおり説

Kの自殺の原因に、静とその母親がまったく気づかないのは不自然である…(略)この母娘はかねてから相談して、財産のある「先生」を婿がねにすることに決めていた…ここから、静はKと「先生」を張り合わせ、「先生」の嫉妬心を煽って、求婚へ持って行かせた…

同性愛(BL?)小説だよ説

『こころ』を「同性愛的」と評したのを受けて、同性愛的どころか100%のホモ小説だ、と書いていた。


……おいらはこの論争の解説を読んでさあ、
「シャーッロッキアンのやってることと、何がちがうねん!!」とつくづく思ったよ。
だから、基本的には肯定する(笑)。
「おもしろい『大人のお遊び』をやってらっしゃいますね…のりましょ、乗りましょ」的な感じですよ。
まさにこれって「二次創作」ってやつだと思うのですよ。
 
ただそれ以上でも、以下でもない気がしますがね。


小谷野敦氏もあきれている。

ものすごくバカバカしい情景であると言わざるを得ない。大の大人が、たかが小説の、しかも書かれてもいない「後日談」について、学術雑誌の上でかくのごとき「論争」を展開しているのである。
まさに「空の杯でのやりとり」であって、江藤淳などが一顧だにしなかったのも当然であろう。
ここには「作品論」とか「テクスト論」とかいうものの、根本的なバカバカしさが表れている。

仮に作者が「そんな意図はない」と言っても「テクストが全てです」「『作者の死』なんです」と言い返す宗派がある…という話

なんかそういう議論がひところ流行った、とは小耳に挟んでいたのですが、それ以上の関心は無かった。だが同書で概要を知る。
「テクスト論」で検索してみっか。

http://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E8%AB%96
文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。

まあ、言いたいことはわからんではないな。


ここで、ホットエントリで少し前に話題になったはてなの記事に飛ぶ。

■不謹慎ネタを否定されて原作者に逆ギレする連中は死ねばいいのに
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20140527/1401180027

咲-Saki-』界隈には,「咲さんが放火魔」というネタが存在した。咲の回想シーンにおいて,謎の金髪の少女や炎上する住宅などが登場したことから,「咲さんが家に火を放って少女を殺害したことが彼女の過去のトラウマではないか?」という説である。

ここから先の本題は、この作品の原作者が

咲も照も過失でもなんでも人を殺したことはないし放火もしたこともないです。
幻覚でも思い込みでもなく姉妹です。
これ書かない方がいい気もしますが面倒なメールくるので…
Ritz Kobayashi%27s dreamscape

と書いたら、それに「逆ギレ」した人を批判しているもので、直接テクスト論を否定しているわけではない。というかテクスト論を既に視野に入れているらしく

(略)…後に引用する「水面日和」の方では咲さん放火魔説を支える論拠が列挙されるが,そこでは徹頭徹尾テクスト至上主義的な――つまり,「作家の意図」や「作品に周囲がかけている期待」などを一切顧慮しない――論拠ばかりが列挙される。もちろん,それ自体は何も悪くない,むしろ読解としては普通のことだが,だったら作者の意図が明らかになったからって泣き言言ってんじゃねえよ,と。

とも書いている。


ホームズやこころは作者が死んで、もはや死人にくちなしであるから、こういうことはない…ように見えて、実は権利相続者という人たちもいらっしゃる。彼らはいざとなったら「権利に基づいて映像化を不許諾」という、世俗の法によって物語を支配することができる。しかし「作者の意図」があるとしたら、作者の意図を判断・解釈する正統性も子孫や財団に相続されるのか。

■新作のホームズ映画に著作権者が怒る「ホームズとワトソンを、同性愛っぽく描くな!」
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120321/p3


 「(略)……彼らが将来的作品で同性愛のテーマに触れた場合、映画化は撤回します。わたしは同性愛者に敵意を持っているわけではありませんが、シャーロック・ホームズの本の精神に忠実ではない人には敵意を抱きます」とアンドレアはコメント・・・

ただ「テクスト論」を振り回して、「こころは100%同性愛小説でしょう!」という文学論が許されるなら
銀河英雄伝説は以下略」
キャプテン翼は以下略」
聖闘士星矢は以下略」
も立派なテクスト論ではあるまいか。たとえがファンロード世代だな(笑)
作者が「キャラクターはわが子も同然。わが子を勝手にポルノに出されて喜ぶ親がどこにいる」
編集部が「これ以上キャラクターを傷つけないでください」
と言おうともだ。いや、それを物理的な絵や本、小説にして売るとかの話はまた別ですよ(笑)。

たしかにこれも、不真面目で理不尽なゴネ事案に見えて、実はけっこう考えると深い問題がある。ホームズ権利継承者も予防線を張っているように「AとBの関係は同性愛じゃない!この作品は同性愛を描いてない!!」とあまりにも言い張り、そういう読み方を否定するのは「ホモフォビア」ではないか、という議論も加わる。

原作者が二次創作BLに文句を言うのは「腐女子差別」?
http://togetter.com/li/657319


ちなみにグーグル、およびtwitter内を 「こころ(あるいは「こゝろ」) BL」で検索すると……いろいろ出てくるね…。




でも実際、少なくとも私はその一員であると自認するシャーロキアンは、ホームズ物語について大いに牽強付会もするけど、忙しさと飽きでシリーズを書き飛ばしたコナン・ドイルより遥かに精緻に、矛盾無くテクストを解説してるからね(笑)。ワトソンがいつ結婚し、その結婚生活がその後どうなったのかも、戦争の負傷箇所を肩か足も決めてねーで矛盾だらけの記述をした作者が出る幕はねえっ(笑)
ゆでたまごの「悪魔超人プリプリマン」も「ジェロニモドッペルゲンガー」もテクストとして、作者の意図を超えて解説されるんだよ。


この文章はあまり起承転結を考えずに書いた(いつものこと)なので、このへんで唐突に打ち切りにするが、とにかく最後にまとめると

夏目漱石「こころ」を

※「先生」の自殺後、「私」と、残された先生の奥さんが結ばれた。
※「先生」の奥さんは、はじめから先生狙いで、Kとの思わせぶりは態度は駆け引き。
※同性愛を描いたBLである。

などと解釈して、学者たちが文学論として語っていることに驚いた。


・それはそれで面白いが「シャーロキアン」や「同人二次創作」とやってることは同じなんじゃね?なんでこれだけまじめな文学論争や学術論文扱いなんだろう(笑)
 
 
・作者は死んでるから心配ないけど、一般論として作者本人が「これこれこうなんです」と説明したら、それをどう受け止めるべきなのか、という問題


なんかを考える機会になり、面白かったです。

ちなみにこの本では、
谷崎潤一郎春琴抄」、樋口一葉たけくらべ」をめぐる文学論争も紹介されていて、この2本も同じように「シャーロキアンとどこが違うねん!!」案件だと思いました。