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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

再び、実在ニョーボこと「よしえサン」を描いた須賀原洋行作品を振り返る。

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20131022/p2
にて、発売日前のtwitterでの情報から、須賀原洋行氏がイブニングに描いていた「実在ゲキウマ地酒日記」が単行本発売と同時に連載終了することと、それは作者・須賀原洋行氏の身辺に異変があり、心身の余裕がなくなっている事情によること…それを推測し、ご紹介しました。
 
そして夜。
「イブニング」を実際に読んで、それが実際に須賀原氏の妻でありつつ、長年作品中に登場する強烈な「キャラクター」として多くの読者の人気を博した…「実在ニョーボ」「よしえサン」の逝去、であったことを確認いたしました。
 
 
あらためてご冥福を祈り、須賀原氏とお子様ら家族の心労を、とても計り知れないであろうものの、お察し申し上げます。
最新号発売でこのことが報じられた後の追悼コメントを、以下のtogetterにいたしました。

須賀原洋行氏の「実在ニョーボ」こと、よしえサンについて
http://togetter.com/li/580440

このコメント数、アクセス数が自分の予想を正直大きくこえるものでした。
考えてみれば
「気分は形而上」「実在ニョーボ よしえサン」の掲載誌・週刊モーニングアフタヌーンは、今も大手誌とはいえ、同作の連載時は、出版業全体がまだまだ隆盛を極め、接する人も影響力も大きかった。実在しながら、それらのキャラクターであるよしえサンは、潜在的には極めて多くの人の記憶にいたのかもしれない。


自分が「気分は形而上」を知ったのは、雑誌「諸君」に掲載された関川夏央「知識的大衆諸君、これもマンガだ」だった。

知識的大衆諸君、これもマンガだ (文春文庫)

知識的大衆諸君、これもマンガだ (文春文庫)

ここに
「作者自身を救済するために 須賀原洋行『気分は形而上』」
という紹介の回があった。もともと複数のキャラクターが競うように登場していた中で、自然にどんどんよしえサン(当時は「実在OL」)の存在感が高まっていったと記憶している。


ここで関川本の論を正確に引用すればぐっと内容が濃くなるのだが、数日前にこの本を見たばかりなのに見つからない…。要は関川氏は、哲学的思考や自意識を”こじらせて”(この表現はやはりぴったりだ)、生き辛さを抱えるようになった知的な青年が、一見、能天気なまでの明るさやぶっとんだ発想を持つ天真爛漫な女性に救済されていくという物語としてこの作品を紹介していた、と記憶している。インテリ教授や学生を救済する寅さん、といった趣きもあるが、そこは近代的に、能天気OLも自意識青年も、ややシュールなまでの笑いに転化していた。
それと、あくまでも実生活に基づくエッセイ家庭マンガが並行するというのは、今考えるとけっこう珍しい景観だったかもしれない。
いや、でも「まんが親」の吉田戦車も、時期は違えどシュールな笑いと子育てマンガの両方を描いている…日常生活にシュールさを、シュールさに日常とのつながりを感じられる人じゃないと描けないのかもしれない。


そんな中で、なぜか自分が不思議に一番印象に残っている話…(なぜこれなのかは、自分でも分からない)
(記憶だより)

よしえサン「脂肪切除でヤセる?アタシもやってみよかしら ホホホホ」
ダンナ「脂肪切除?お前がそんなの耐えられるか?」
よしえサン「でっ、できるわよ」
ダンナ「じゃあ試験的な脂肪切除をやってやる。これにみごと耐えてみろ」
と、ニョーボが食べてるステーキ肉の脂身を切りとって捨てる(まず食う方を減らせ、の意味)
ナレーション「一番好きな肉のアブラ身部分を捨てられ、泣いて抗議したこのニョーボは実在する」……。

うん、
幸せでしたよ、やはり彼女は。

「マンガの中で生き続けられれば…」よしえサンは病床でそういった。

最終回のマンガ内やtwitterで須賀原氏は作品の内情を描いているが、ストーリー中に元気に酒を飲み、おつまみを食べてあれこれ味の賛否を語るニョーボはあくまでフィクション。実際の彼女は闘病中だった。

http://togetter.com/li/580440
…今年の8月に意を決して1人で名古屋サケノマス(ハシゴ酒の催し)に行ってきた。ゲキウマな地酒ばかりでツマミも最高だった。蔵元・杜氏さん達とも会えた。でも、「何でニョーボと2人で来てないの?おれ」って何度も心でつぶやいてた。次の店に行く時泣きながら歩いてた。(続く
 
続き)マンガでは2人でハシゴ酒した話として描いた。描いてて本当に2人で行ってきたように思えた。でも実際は1人。現実との違いが大き過ぎて、このような描き方はもうできないと思った。そのうち、行った先で「今日は奥様は?」とか聞かれるかもしれないし。(続く
tebasakitoriri 2013-10-22 12:00:26

それを実際のよしえサンはどう読んでいたか。
引用させてもらう。


ニョーボ「マンガの中のあたしが元気にお酒飲んでツマミ食べてるの見ると気が楽になるわっ」
ダンナ「そ、そうか…」
ニョーボ「あたしにもしものことがあってもマンガの中で生き続けられれば…」
ダンナ「何言ってんだ!もしものことなんかないから」

涙を禁じえないやり取りだ・・・
ただ、以前読んだこういう話を思い出した。
山本夏彦氏が紹介していたフランスの小説だったと思うが、平凡な市民の一人が亡くなる。葬儀が終わり、墓が立てられる。しかしその墓に参る知人や家族は一人減り、二人減り……そして数十年後、市役所の戸籍係か何かが調べものをして、この人が載っている古い名簿を参照し、彼の名前もチェックする。
そしてこの名簿を閉じ、閉架棚にしまうと…
「その後、彼のことを思い出すものは一人もいなかった。このとき、彼は本当に死んだ」

みたいな話だった、と思う。
同じ様な解釈のマンガもどこかで聞いた気がするな。幽霊だか守護霊が「わたしらは思い出してもらう、気にかけてもらうのが霊の力になるんだ。忘れられ、気にされなくなったら消滅するのさ。だから忘れてもらわないようにご利益でも化けて出るでもしないと」といった……。


また自分は近年の「木村政彦の再評価」を人間の最後の勝利は「物語」として語られることではないか、という視点でも興味を持っていた。八百長崩れで大観衆の前で大きな恥をかき、並ぶことない実績に比して柔道界では不遇が続いた木村政彦も、一人の作家が渾身の力を込めた「物語」を描くことで救済し得る。

近代柔道史の光と影。…そして最後の勝者は”物語”なのか?(ゴン格215号)
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100422/p1

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

そして、須賀原氏はこういう。

続き)前からいずれ日本全国の酒蔵や地酒の催しを巡る地酒バカ夫婦ツアーみたいなのをやって地酒日記に描けたらと思ってた。今もそう思ってる。1,2巻に反響があってニーズがあって元気が出てきたらマンガの中でニョーボを生き返らせたい。それで通用するかどうかはキャラ表現力次第だと思う。(続く
http://togetter.com/li/580440

ご自身の気持ちの整理がどうつくか、まさに「物語」としてそういう試みが成立するか、周囲、ご家族の反応、また商業的ニーズの有無……そういったものは自分は全く分からない。ただ、どうなるか見守っていきたいと思う。

自分の家族の経験とも重なった

あまり自分の語りは避けますが、自分もこの前、父親の三回忌を終えたばかり。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111013/p2

この前のモーニング「コウノドリ」も、よしえサンもそうだが、治療法や何を優先させるか、の選択で迷う、ということが偶然なく(ほぼひとつの選択しかなかった)、その点は違うけど、「月単位の余命」を言われたときに「といっても、その『余命』が続くんじゃないか」と根拠無き楽観論を思ったりするところは同じだったな。

また、別の親族で、やはりがんを切除し、あとは定期通院を続けている人もいる。
その人も今はまったく前の生活に戻っているが、潜在的な万が一、をつねに気にとどめておきたいと感じました。




そんな個人的な読後感も合わせて…
   あらためて、彼女の魂に平安があらんことを。