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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「カメラの構図(コマ割り)」という20世紀の魔法 〜町山智浩「鈴木先生」評をきっかけに

以前から考えている話(後述)だけど、今回話題になった町山智浩ブログをとっかかりに考えてみたい。

まずその町山氏のブログを紹介。映画「鈴木先生」の話題から。

■必ず映画『鈴木先生』を鑑賞後にお読みください
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20130219

というタイトルにいまは改題されているのかな?自分が読んだときは確かこういうタイトルじゃなかったと思うので、映画は未見だがふつーに読んでしまった。ちなみに当方は漫画原作はすべて読み、テレビは再放送を、数話除いてHDレコーダー内に録画してある。


で、町山氏の批判は主に画面の構成についてかかれたものだった。

シナリオは完璧・・・複雑で緻密な原作の要素を余さず収めている。
 でも、撮り方(カメラ割り)がまったくダメ。・・・ほとんどのシーンはロングまたはフルショット、ないしミディアムショットの長回しで撮られている。これがマンガだったら、登場人物たちの全身が描かれた同じアングルのコマが連続するようなものだ。戦前の漫画「のらくろ」・・・
(略)
俳優たちはアップになるとき、その瞬間だけは誰もがその映画の主役だ。 これは舞台の芝居なら、スポットライトを浴びて名セリフを語る場面になる。 舞台ではアップができないから内面を言葉で語るしかない。当然リアリティは損なわれる。 しかし、映画なら言葉でなくても、表情だけでも内面を・・・

これに対して異論を書いているのが漫画研究者で、昨年は「鈴木先生」作者、武富健治氏の作品展を明治大で開いた宮本大人氏。

町山智浩さんの「映画 鈴木先生」評について
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20130220/1361287974

・・・クロースアップをもっと多用すれば、もっとよく顔が見えて、映画ならではの演出になるのに、という考えもあるとは思いますが、それについても、クロースアップを増やすとカット割りが細かくなって編集でつないでる嘘くさい感じが出かねないとこもあり、ちょっと引いた絵の長回しの方が、この作品に必要なリアルさが出るのでは?ってことが、次の疑問点になります。

 漫画と違って、生身の役者さんが演じていると、クロースアップを多用した場合の、嘘くささは増すリスクも高い・・・

自分はちょうどいいことに(笑)、まだ映画を見ていないのでこの議論、映画「鈴木先生」評価のどっちが正しい、ということには立ち入らない。
自分があらためて興奮するのは・・・、いうまでもないけど、「そうそう『カメラ割り』・・・いくつもの画面で作る映画(テレビ、漫画含む)は新しい表現技法だったんだなあ」という、その起源や進化、意味をさぐる知的興奮だ。
今回も上の町山記事で新知識を得た。

…『八月の鯨』という映画で、リンゼイ・アンダーソン監督は、主演女優リリアン・ギッシュ(当時94歳)・・・・「ギッシュさん、ありがとう。おかげで素晴らしいクロースアップが撮れました」と言った。すると共演の女優ベテイ・デイヴィス(当時79歳)はこう言った。
 「そうよ! 彼女が発明したんだもの」
 正しくは、リリアン・ギッシュがクロースアップを発明「させた」のだ。
 劇映画が生まれた20世紀初め、クロースアップというものは存在しなかった・・・(略)しかし、D.W.グリフィス監督は、リリアン・ギッシュの可憐な顔を見せたくて、または、彼女の顔を見たいという観客の欲望に応えて、彼女の顔にカメラを近づけて撮った。舞台劇では不可能な、映画ならではの表現技法が生まれた・・・

グリフィスか。やっぱり・・・。


ちょっと自分語り・・・でもないけど、自分がこういう「映画、TV、漫画の『画面』の技法」というものを意識したきっかけははっきり分かる。
 
一がこのグリフィスの功績を漫画で描いた「栄光なき天才たち」。

 
二が1980年代末か90年初頭か・・・実験的な深夜番組を次々と作っていたフジテレビで、宝田明が一人語りの司会で映画の撮影術、演出術を語っていた番組「アメリカの夜」。
 
三、・・・というかその前にあるのが、藤子不二雄がダブルで「まんが道」「二人で少年漫画ばかり描いてきた」などで折に触れ語っていた・・・「手塚治虫新宝島』の冒頭はすごかった!徐々に車がこっちに向かって近づいてくる、斬新なコマ割りだった!!漫画が映画になった!!」という”手塚神話”だ。(この手塚神話が後日解体される過程もいまや有名だが、とりあえず自分は藤子先生のこの主張を額面通り受け止めた)。

その後、エイゼンシュテインポチョムキンモンタージュだ、世界のオヅだ実相寺マジックだ、島本和彦の大ゴマだ・・・など、映画や漫画に接していれば画面構成やアングルに関するあれこれの話というのも自然に耳に入ってくる。

ただ、たんに自分が「XXはじめて物語」が特に好きだということもあるけど、もともと映画が技術の制約もあり、舞台の劇をそのまま撮る、という発想がずっと続いていた・・・ところがフィルムが数分ごいとに交換する必要があることもあり「あ、カットごとに別の場面を撮れるんじゃない?」「そのとき、このかわいい女優の顔をアップにすれば客呼べるんじゃない?」と思って、新しい表現技法が生まれた・・・
なんかこの「表現技法の始まりと進化」、それ自体に、自分はロマンを感じるんだなあ、と上の議論を読んで思ったのです。
まずそんなところで第一部。


【追記】
のちに手塚の、こんなコマをtwitterで見た。新機軸の創始者ではないが推進者ではあるんだね

しかし「場面転換」の芸術は映画以前からあった。

まあ芝居の舞台だって、クローズアップはできなくとも場面は変えられるし、「早代わり」に情熱を燃やした舞台芸術も工夫もすばらしい。
ただ、自分はちょっと別の、先人の指摘を。
昨年10月に、漫画のコマ割りがtogetterで話題になったときにtwitterで書いていたな。

映画に「カメラアングル」「カット割り」の導入された歴史を以前から詳しく調べたかったので参考になった。スポーツ中継だとどうなのだろう。映画「民族の祭典」では違うだろうし / “漫画の縦のコマ割り線、垂直に引くことと斜めに引くことの演出的…”
http://htn.to/K5hcre
posted at 03:30:16

寺田寅彦は「映画のモンタージュというのは、要するに連句ですな」と、何かの映画を連句化したことが・・・ああ、ほかにもいくつかあるけどこれかな。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2469_9349.html 
自分はこういう、新ジャンルを開発受容する「黎明もの」が好きなんだな。 @fullkichi
posted at 06:45:01

あ、寺田寅彦が映画を連句化するのを試みたのはこの文章でした。 しかし20世紀の最新芸術を見て、江戸の伝統との共通性を見破るというのはすごいねえ・・・ http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2467_9719.html
@gryphonjapan @fullkichi

twitterじゃできなかったが、寺田がすでに昭和7年に指摘していた映画の特質を引用しよう。

・・・(映画と舞台の)最も分明な差別はこれらの視覚的対象と観客との相対位置に関する空間的関係の差別である。舞踊や劇は一定容積の舞台の上で演ぜられ、観客は自分の席に縛り付けられて見物している。従ってその視野と視角は固定してしまっている。しかし映画では第一その舞台が室内にでも戸外にでも海上にでも砂漠にでも自由に選ばれる。そうしてカメラの対物鏡は観客の目の代理者となって自由自在に空間中を移動し、任意な距離から任意な視角で、なおその上に任意な視野の広さの制限を加えて対象を観察しこれを再現する。従って観客はもはや傍観者ではなくてみずからその場面の中に侵入し没入して演技者の一人になってしまうのである。
(略)
映画は自由自在に空間を制御することができる上に、また同様に時間を勝手に統御することができるのである。単にフィルムの断片をはり合わせるだけで、一度現われたと寸分違わぬ光景を任意にいつでもカットバックしフラッシュバックすることもできる。東京の町とロンドンの町とを一瞬間に取り換えることもできる

そしていう。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2467_9719.html
・・・ちょうど俳諧連句の句々の連珠のようなモンタージュによって次々に展開進行して行くのである・・・そこに「シーンのメロディ」を作っているように見える。このようなことはいわゆるモンタージュの一つの技法であって・・
これに比較さるべき唯一の芸術形式は東洋日本の特産たる俳諧連句である。 はなはだ拙劣でしかも連句の格式を全然無視したものではあるがただエキスペリメントの一つとして試みにここに若干の駄句を連ねてみる。

草を吹く風の果てなり雲の峰
娘十八向日葵の宿
死んで行く人の片頬に残る笑み
秋の実りは豊かなりけり

こんな連続(コンチニュイティ)をもってこの一巻の「歌仙式フィルム」は始まるのである・・・

ちなみにこの寺田の映画=連歌説は、中野翠の書評エッセイで知った。このどれか・・・

ムテッポー文学館 (文春文庫)

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ふとどき文学館

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あやしい本棚

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会いたかった人、曲者天国 (文春文庫)

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そしてこういう、「文章表現の中でも視点、画面、アングルを切り替えられる」という話が、今、朗読を描いた漫画「花もて語れ」の・・・特に今やってる宮沢賢治の朗読の話につながるのですよ!!(どやっ)。
・・・たぶん。

花もて語れ 1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

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スポーツ漫画やスポーツ中継のアングル、構図について

以前、格闘技漫画オールラウンダー廻」作者の遠藤浩輝氏がUst番組に出演したとき、事前にこういう質問をしたい、と書いたメモ書きがある。
残念ながら話の流れと時間制限で実際には質問できなかった。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120919/p1

■試合と技(特に寝技)を描くときの「カメラアングル」について

 
これは一度、他の作品(柔道部物語、帯をギュッとね!鉄風など)の格闘シーンとも比較してエントリにしたかったのだけど、その参考用に。
漫画は映画の影響を受け始めてから、というべきでしょうか、「視点」「カメラアングル」が次々と変わりつつストーリーを展開していきます。だから漫画家は映画で言えば脚本も書きつつ、カメラの構図もすべて決定しているわけで・・・
遠藤先生は豊富な試合観戦経験があると思いますが、会場での観戦は原則的にすべて一方向からで、特に寝技の攻防では肝心なところが見えないことも少なくありません。
とくに、試合の展開・・・例えば廻がスター・スイーブからチョークスリーパーで勝つ----といった内容を決定後、それを絵にするときの「カメラアングル」はほぼ自動的に脳内に浮かぶものですか? それとも「ここはアップにしようか、いやむしろ天井から見た構図がいいのか…」とかなり試行錯誤するものでしょうか?

(※追記 この記事の一番最後を、あとで見てください)


この作品に限らず、格闘技漫画をあれこれと比較すると、ことにアクション、格闘技場面のコマ割りの「癖」や「特徴」はいろいろあるんだろうな、と思う。ただその違いを言語化するのは相当難しそうだ・・・

スポーツ中継はいかにして、生中継での「カット割り」を進歩させていったのか?

これはたぶんカメラを会場に持ち込める数や性能といった、物理的要因がいろいろと多かったのだろうと思う。
ただ、「スポーツもただ固定した1カメラで全体を写すより、さまざまな角度から撮ってそれをつなぎ合わせたほうが劇的じゃね??物語が生まれね?」ということはテレビ出現のすぐ前、完璧にひとりの天才女性によって証明されていた・・・そう。あれだ。

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この天才はすべてを美しく撮った。勝負の厳しさもスポーツ自体の魅力も、アスリートの美は人種に関係ないことも、その祭典を利用しようとした独裁者も・・・その是非は、今回のテーマとはまた別の問題となる。

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とはいえ、これはスポーツ「映画」、記録映画の話だ。これはカメラも映画会社の資本力を生かして、たぶん複数用意できるだろうし、編集もあとからじっくり、時間をかけて丁寧にやればいい。
実は「過去のプロレス映像はどーなってるんかな?どうせいろんなアングルのカットをつなげてドラマチックな映像をつくるなんて気の効いたことはできてないだろう」と思ったら意外や凝っていてあれあれ・・・、だったのだが、これはナレーションでも分かるけどまだ主流の情報メディアであった「ニュース映画」のほうでしょうな。テレビ映像はまだ別にあるのだろう。

これは間違いなくテレビ映像。うん、1962年でも、やっぱりアングルに凝るまでにはいかない!!


しかし映画はカット割り、モンタージュの効果はすべて立証済みであって、生中継のスポーツ中継は、はるか先に理想の形態は明示されていて、あとは資材や体制、技術力が向上していけば、「映画のようにスポーツ中継をする」という目標にまっしぐらに進んでいったのだろうね。
それがいつ、どのようになっていったのか。
たぶんそのスジを調べればわかるだろうし、そしてむしろ「プロレス中継」より「野球中継」のほうが、劇的に変わっていったのだと推理する。アングルやカット割りの活用によって、「野球の絵」はプロレス以上に変わるだろうからね。
古い野球中継の映像は・・・

うーむ、検索の仕方が悪いのかもしれないけど「放送開始当時のテレビ野球中継」映像はちょっと分からない。さらにプロレスと同じく、なまじ「ニュース映画映像」が豊富なので混同しちゃいがちだ。

このへんの進化史は後日の課題としよう。

現場で画面切り替えの指示を出すディレクター…(?)プロレス史は彼らの「芸術」を通じてのみ残された。

時代は一気にくだって昭和、平成の名勝負。
以前プロレスニュースで福沢がディレクターの仕事のパロディをやっていて、10個ぐらいならんだモニターを「はい1番から2番、そこからもう一度1番に切り替え!」とかやっていたんだけど、たぶんああいう感じで「プロレス番組」「プロレス映像」は作られていくんだろう。


これらの名勝負は・・・今後は情報機器の発達で「全角度の、カメラの映像を最初から最後まで付録としてブルーレイに収録」なんてこともあるかもだけど、少なくとも昭和平成のプロレス名勝負は・・・もし映画監督がフィルムの編集権を持つことが最大の権限だとするなら、現場で指示を出していたスポーツ中継ディレクターの「作品」であり、彼らのセンスや才能によって後世に伝わるのだろう。
 
また将棋で早指しをするとプロ棋士の勝率も変わるように、じっくり編集する映画監督のそれと、リアルタイムで「はい、そこで猪木のアップ!」「もうすぐ乱入あるからな、入り口の絵押さえとけよ・・・なぜ知ってるんですかだと?バカヤロー、それを聞くな!」とやるディレクターの才能は違うのかもしれない。
 
スポーツ中継の関係者の中では「ああ、伝説の『清水ロングカット』でこの試合を記録できるなんて最高だぜ!!」とか「せっかくの名勝負なのに、田中の若造が焦って早めに画面を変えすぎちゃって台無しだぜ!!」とか、そういうのもあるんだろうかね・・・??

王侯貴族も知らないスポーツの魅力を「中継」は見せた。

かつて一番いい席に場所を取れた王様、貴族様や成金たちも、野球中継でピッチャーの表情、バッターの表情を一度に見たりすることはできなかった。
関節技ひとつだって、正反対のコーナーでもつれて絡み合う中では、特等席の王様も、勝負を決めるその攻防を見ることができなかった。
駅伝、マラソンなんて言うまでもなし。


してみると、やはり「スポーツのテレビ中継」は単に撮影機材や放送機材が発達しただけではなく、「画面構成」「演出技法」もどんどん天才が発達させ、会場で見るものとは違う、そして劣らない魅力を次々と生み出していったに違いない。
そういう人たちの技や時代の変化・・・まさに表題にうたった「20世紀の魔法」を、映画・ドラマの技法発達史や漫画の表現史と同じような地平で、もっと誰かが研究し、体系的にまとめて、そして一般に啓蒙するような仕事をしてほしいと思ったのであります。


以上、映画「鈴木先生」のカット割りをめぐる議論から連想して。
(とりあえず完)

追記 「オールラウンダー廻」作者が秘密を語った!「キメの大ゴマから…”逆算”せよ!」

https://twitter.com/hiroki_endo

遠藤 浩輝 ‏@hiroki_endo
@gryphonjapan @kijiguy お疲れ様です。私ら漫画家はとにかく「解りやすくてカッコ良い絵」を大ゴマで描く、が大好きなので例えば十字極めた時の絵がヌキ所、としたら逆算してコマ割りします。とにかく「ヌキ絵」まではとにかく解りやすさを最優先しますね。
そこでの「イマジナリーライン」は単純に「抜き所」までのコマ数で決まるので、限られたコマの中でどれだけ解りやすくするかの勝負です。なのでテクニカル上の問題で「イマジナリーライン」超えてしまうケースは有りますが全ては「ヌキ所」 の為!

(※当方の質問)
gryphonjapan (MMA)
ふーむ、これUstで聞けず今日の記事で書いたんですけど、やはり物語の試合展開が決まったとして、その構図、コマ割りは自然と頭に浮かびますか?やはりそこから、かなり何案も考えますか? @hiroki_endo @kijiguy

遠藤 浩輝 ‏@hiroki_endo
@gryphonjapan @kijiguy これは私も描いてて面白いんですが、最初の予定より流れに従った方が面白い物が出来るので、まあ「無我」で行きます。若い時は不安でそれが出来なかったんですが。