こんなtogetterを見た
■秀忠の権威をスポイルするスキルは何処で身についたか、家康の持っていた最高のスキル『長寿』
http://togetter.com/li/323740
よく「有り得たかも知れないもうひとつの日本史」を空想するとき、ひとつの可能性として言われるのが「本願寺系をはじめとする寺社勢力が20世紀の今も、アメリカのキリスト教原理主義勢力なみの力を持っている社会」。
それを結果的に防いだのが、信長の比叡山焼き討ちから秀吉の刀狩り、江戸の檀家制にいたるまでの戦国覇者の対宗教政策だったと。
徳川秀忠はその後、そういえば「紫衣事件」で天皇家勢力にも完勝をおさめた。
秀忠といえば関ヶ原遅参、はよく知られている。
悪役としての存在感は、時代小説史に永遠に残る隆慶一郎「影武者徳川家康」
- 作者: 隆慶一郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1993/08/31
- メディア: 文庫
- 購入: 6人 クリック: 180回
- この商品を含むブログ (85件) を見る
しかし、本願寺分割や紫衣事件、などをひとつの闘争とするなら、秀忠の「勝利」もけっこう多かったのではなかろうか。このへん、自分もよくわからないのでちょっといずれ調べてみたい。
…元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子・忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。一方、弟・松平忠輝、甥で娘婿でもある松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている・・・(略)寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、秀忠は天皇家の外戚となった・・・