自分の中では、高校教科書で強い興味を抱きつつ(両方とも、出てくるぐらいの事件)、その後は山内昌之のウィキペディアをちょこちょこ見るぐらいで体系的に学んでない。しかも後者は、ウィキペディアでも非常に記述が少ない。
ヨーロッパの植民地が、脱植民地運動を本格的に始めた時期であり、しかも宗教性も持ちつつ、明確に近代の「ナショナリズム」に近いものも持っていた。
やっと混乱と内乱(西南戦争)も鎮圧し、うちには自由民権運動、外には朝鮮・清国との緊張や条約改正を控えた明治日本では、共感や同情(小説「佳人之奇遇」を見よ)の一方、西洋と感覚を同一視しての偏見もあったらしい。
自分としてはパシャのほうがすきなのだが、規模としてはマハディ運動(「マハディの乱」)のほうが大きく長く、英国の大物軍人をやっつけたりして映画になっている。
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とか、下のとか。
http://ww1.m78.com/topix-2/mahdi1.html
http://ww1.m78.com/topix-2/mahdi2.html
ムハンマドは回教のなかのサマニヤー(Sammaniyah)教団に学び、厳格な修行を実行した者として頭角を現した。
1880年ごろサマニヤー教団の主席神学者となった。ムハンマドの説教は次第に多くの聴衆を集めるようになり、マフディ(Al Mahdi al Muntazar)と自称するようになった。マフディとは正しい道への導者の意味で、マホメットの後継者とされるカリフより高位にあるとする。すなわちオスマン帝国の首長より自分は上位にあると主張した。そして内容は激烈な反トルコ・反エジプト主義でスーダンの独立を訴えるものだった。
この意味でイスラム原理主義の特徴の汎イスラム運動とは異なり、国家主義的でありよりスーダンの民衆を引きつけるものとなった。この時代のアフリカの暴動指導者のものと比較してマフディの主張は普遍性があり、時代が異なれば独立の英雄たりえたと思われる。
(略)
1885年1月28日、前哨部隊がハルツームに到着、そこで見たものはイギリスのハルツーム守備隊全滅の光景だった。アンサルは1月ナイル川が最も水位の下がる時を狙い一斉攻撃をかけたのだった。ゴードンの首級はマフディに届けられた。