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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

昨日が三島由紀夫自決40周年でした。猪瀬直樹の文章

憂国忌」とも呼ばれる三島由紀夫の自決から40年で昨日、「ペルソナ」の作者でもある猪瀬直樹がメルマガで、昔の自分の文章を配信した。
その後半部分を紹介したい。

■“天皇”の発見

 小林秀雄は三島との対談で「どうして殺さなかったのかね、あの人(主人公)を」と疑問を呈した。三島は「実録にとらわれたんです」と答えた。事件を素材としたもので、実際の犯人は生き延びた。その通りかもしれないが、三島は主人公を殺すつもりがなかったと考えたほうがよい。究竟頂の扉が開かないことで、別のなにか、その名称通りの究極の世界、触れてはならない場所、が残されたのだ。

「三島は『金閣寺』で、ある矛盾を抱えた。主人公は究竟頂の扉の前で拒まれた。拒まれたのは、じつは主人公ではなく生き延びて日常性に飼い馴らされようと求める三島なのであった。X嬢との甘美な日々は、やがて訪れる別離を予感しながらも絶頂へと向かっていたのである」(拙著)
 
金閣寺』のラストシーンで主人公は「生きよう」と決めた。だが考えてみれば金閣は燃えてしまったのだ。「戦乱と不安、多くの屍と夥しい血が、金閣の美を富ますのは自然であった。もともと金閣は不安が建てた建築」だった。昭和20年代は、その余韻、混乱と破壊が入り交じっていた。X嬢も非日常の側に棲んでいた。だが社会変動が去り、暗いはずの三島の青春は予想外のハッピーエンドで幕を閉じた。そして経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。

 三島が最も忌み嫌った日常性が高度経済成長という形で押し寄せてくるのである。もはやだらだらとつづく退屈な、俗悪な生活的現実が待ち受けているだけだ。その日常性に一気にゼロをかける、いわばトランプのジョーカー、それが三島に残されたあの究竟頂であり、天皇の新たな発見だった。現実の生身の人間としての天皇ではない、超越性、絶対性へのこだわりである。

 あの華々しくも無残な自決へと至る道程は『金閣寺』に出発点があったと僕は解している。
(『週刊文春』 99年11月18日号)

全文は数日したら、
http://www.inose.gr.jp/mailmaga/index.html
に掲載されるでしょう。