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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

【敗将列伝】民主化直前、ポーランドに戒厳令を布告したヤルゼルスキの話。

本日をふくめ「ジンギスカン 牟田口」で来る人がけっこう多い。
その単語で検索すると
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080714#p5
■「昭和のジンギスカン」こと牟田口廉也のちょっといい話【敗将列伝】
 
が結構上位に来るようです。
私は現在、その小見出しのように敗将列伝というエントリーを時々載せています。
ブログ内を【敗将列伝】で検索してください

で、この牟田口閣下の検索結果で
「こんど『敗将列伝』で取り上げるとしたら誰かなぁ…」と考えると、表題のヤルゼルスキ氏が思い浮かびました。
取り上げる、って言ってもウィキペディアの「ヤルゼルスキ」を引用するだけなんですけどね(笑)。

生い立ち &軍人、政治家への道

ポーランドのルブリン県プワーヴィ郡のクルフで、愛国主義的な貴族の子として生まれる。…カトリック修道会の寄宿舎で教育を受ける・・・
1939年に家族とともにリトアニアに亡命。リトアニアソ連に併合されると、1940年にはシベリア地方に抑留され、…目を傷め、以後色付きのめがねをしているとされる。なお、父はこの抑留中に命を落としている。
 
・・・1943年、リャザンの士官学校で学び、…ワルシャワ解放などに参加した。1945年5月にナチス・ドイツが敗北し、第二次世界大戦終結すると軍内で地位を固めた・・・1965年には軍参謀総長に就任し、1962年に国防次官、1968年4月から1983年11月まで国防大臣を務める。

1980年7月に北部の都市・グダニスクで食肉の値上げを原因に起きたストをきっかけに造船所の工員レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)が自主管理労働組合「連帯」を組織し、委員長に就任した。民衆からの民主化への要望が高まる中、ヤルゼルスキは1981年2月に首相に就任。

戒厳令民主化

その後も高まる民主化運動への対抗策として1981年12月13日にポーランド全土に戒厳令を布告したものの、民衆の民主化要求にそむくこの行為は、共産圏を除く世界各国から激しい非難を浴びる結果となる。・・・その後ヤルゼルスキは、1981年から1983年まで救国軍事会議議長、1983年からはポーランド軍総司令官となった。
 
・・・民主化の波を受け、1989年2月以降数度にわたり行われた「円卓会議」と呼ばれる「連帯」を中心とする反体制側との会議で、上院の新設や下院立候補の制限緩和、「連帯」の合法化などの大幅な民主化政策の実施についての合意を成立させ、民主化への道筋をつけることに成功した。

そしてその評価は?

ヤルゼルスキは、戒厳令を敷いたことで非難されているが、連帯を解体させず、民主化へと導いたという点でもっと評価されていい人物である[誰?]。戒厳令中、彼は民主化を主張するポーランド人を弾圧したが、熱心なカトリック信徒である彼は、教会に逃げ込んだデモ隊に対して弾圧を行なうことは決してなかった。またソ連政府が衛星国である当時の東欧諸国がソヴィエトの影響下から離脱しようとした時容赦なく軍事侵攻している(例、ハンガリー動乱プラハの春)ことを目の当たりしている以上、もし戒厳令を敷かなければソ連政府はポーランドへ軍事侵攻を実行に移すことは明白であった。実際にソ連からは有効な対策を打たなければ実力行使を行うという期限付き最後通告を受けており、放置しておけばソ連の介入でポーランドが壊滅すると考えた末の決断であった。
 
いっぽう、「ククリンスキ文書」において当時の政府内部では、民主化運動が過激化して収拾がつかない状態に陥れば「最後の手段として」ソ連その他ワルシャワ条約機構軍の受け入れ要請を行うのもやむを得ないという選択肢も検討されていたことが明らかになっている。当時のヤルゼルスキ政権はソ連との間でポーランドの石炭と引き換えに食料や燃料を受け取るバーター取引により国民の生命をつないでいる状態であり、民主化運動が過激化して無政府状態にでもなればそれは即座に国民の多数が餓死する事態が容易に予想されたことから、東側軍隊の受け入れが検討されたことは、「最後の手段」としてならばごく自然な選択肢であるとも考えられる。
 
ヤルゼルスキ自身ものちに、「あれ(戒厳令の布告)は、(ソ連の介入という事態に比べれば)より小さな悪だった」といった発言をしている。ハンガリー動乱チェコ事件のような悲劇を未然に防いだことは、彼自身の功績であったと断言してもいいだろう。またポーランド民主化運動も彼が拒否し弾圧を過激化させていたならば、平和的に無血で政権交代に及ぶことが出来ず、ルーマニア革命や、ユーゴスラヴィアの様な内戦に陥る不安もあったのである。東欧革命では、ワレサに主役の座を譲ったが、彼自身も革命的政治家として、東欧革命の主役の一人であったと言っても過言ではないはずである[1][3]。

この「評価」という文章は事実関係についてはおくとしても、表現的に百科事典としての書き方はおそらく不適切。「誰(がそう評価しているんだ)?」という注釈を、たぶん他の方がつけているからね(笑)。


ただ、「ヤルゼルスキがあの時戒厳令をしいたから、ソ連は直接介入してこなかった。その上で反体制派の弾圧も比較的緩やかだったから民主化の芽が育ち、やがて花開いた」という評価が厳然としてあることは承知している。
これこそ、ハーバードの学生たちが教室で白熱しても、容易に答えは出てこないだろう。

私が上のような(一方の)評価を読んだのは辺見庸の往年のベストセラー「もの食う人々」だったからご存知の人もいるかな。

もの食う人びと (角川文庫)

もの食う人びと (角川文庫)

共同通信の記者として、配信記事という形でこの本の文章は書いていたから、正統派の取材でアプローチしてもいいはずなのだが、彼はなんど「ヤルゼルスキの考える『食』とは」つう、相手が面食らうテーマで質問(笑)。
ちょっと詳しい内容の記憶が曖昧だけど、
当時は年金ぐらしの老将軍は「食事とは体を維持するための手段だ」とかすごく謹厳実直で、その分融通の効かない回答をする。その回答と、上のような経歴が交錯してとてもおもしろい。
そして最後に、彼はある告白をする。
「わたしも、実は堕落してしまった………。テレビを見ながらものを食べるようになってしまったのだよ」
そういって去っていった彼は2007年、「共産主義者の犯罪」を裁かれる被告の身になった。


これも現在の裁判事情、わかりますか?こういうとき英語ニュースでも検索、熟読できればすぐに分かるんだろうけどなあ。
こういうのは見つかったけど、客観なのか一方の主張なのかもわからん。
http://blogs.wsj.com/new-europe/2009/12/08/new-evidence-shows-polands-ex-dictator-jaruzelski-guilty-of-high-treason/